春風亭かけ橋「嶋鵆沖白浪」連続口演「小菅屋の仇討ち」「八丁堀の召捕り」

配信で春風亭かけ橋「嶋鵆沖白浪」連続口演の第6回を観ました。

第11話「小菅屋の仇討ち」

千住の小菅屋をおせん婆さんと湯屋の重吉が勝五郎の父親を殺害して乗っ取り、罪を勝五郎に被せた。このことが許せない勝五郎は庄吉と連れ立って仇討ちすることにする。まずは庄吉が客として入り、その間に勝五郎は生き別れた女房のおきちのところへ行く。

島流しになるときに見送ったおきちは身重だったが、あれから8年ぶりの再会。男の子が生まれ、勝之助と名付けたという。必ず会えると信じていたおきちは貧乏暮らしだが、勝五郎をよく知っている青物横丁の旦那衆が世話をしてくれ、勝之助がそこで働き、おきちも針仕事で何とか生計を立てているという。

小菅屋に金の工面を頼みに行ったこともあったが、「お前の亭主は実の親を殺した大罪人だ。暖簾に傷がつく。去れ!」と塩を撒かれたという。昔からの奉公人である弥助爺さんが見かねて、いくらか渡してくれた。その後もちょくちょく少ないながらも金を作って持って来てくれ、助けてくれたという。

「おせん婆と湯屋重、あいつらだけは生かしておかねえ!のうのうと暮らしているかと思うとはらわたが煮えくり返る」と勝五郎。でも、そんなことをしたら、折角無実で許されたのが台無しになると、おきちが言うと、「実は島抜けしてきたんだ」と勝五郎が言う。おせん婆と湯屋重を叩き斬れば、何の悔いもない、男を立てるんだ、怖いものなどない。これを聞いて、おきちは「そんなために帰って来てほしくない」。

「お前たちに会いたかっただけなんだ、わかってくれ」「わからないよ。自分勝手だ。私がどんな思いでやってきたか…そんなことなら会いたくなかった」。勝五郎は申し訳ない気持ちでいっぱいだろう。でも、仇討ちしないわけにはいかない。十両と離縁状を「これだけは受け取ってほしい」。そして、「すまない」と未練を振り切るように、勝五郎は千住に向かうのだった。

小菅屋の二階の角部屋で寝ている庄吉を起こし、寝ずの番がウトウトしている隙を狙って、おせん婆と湯屋重が寝ている部屋へ。一瞬にして、部屋は血の海となり、おせん婆と湯屋重は息絶えた。そして、寝ずの番に「奉公人を全員集めろ」と命じる。

気が付いたのは弥助爺さんだ。「若旦那様!勝五郎さんでは?」。おせん婆と湯屋重がいかに悪いことをしたか、だから叩き斬ったと経緯を奉公人や遊女たちに話し、御礼として蔵の金を全部山分けにしろと言い、遊女は全部証文を巻いてやる。弥助爺さんには「女房のおきちと勝之助を頼む」と言い残す。そして、奉行に自首して、お仕置き場において打首獄門となった。吉原火事から2年後のことだった。

第12話「八丁堀の召捕り」

梅津長門が大恩寺前で上州沼田の物持ち、与兵衛を殺し、金を奪った。この仇を討ちたいと一人娘のお峰が江戸へ出た。そして叔父の紹介で日本橋干物町に住む春木道斎の女中をしていた。お峰が道斎の家に戻ると、女の声が聞こえる。道斎は独り者である。一体、誰だろうと襖の陰で耳を澄ませた。

「番町の御前、久しぶりです」「何だ、花鳥」「いえ、今はお虎です。吉原の火事で会った以来ですね」。春木道斎とは仮の名、梅津長門その人なのだ。喜三郎が美人局で十文字屋の卯兵衛を強請ろうとしていたところを、梅津が現れて十両渡してその場を収めた。だが、「たった十両」ということに不満で、お虎が梅津の許を訪ねたのだった。もう少し色をつけてもらいたい。

お虎をネチネチと嫌味を言う。2年前に大恩寺前で人殺しさえしなければ、梅津長門として堂々と生きていられたはず。私はあなたを逃がすために火付けまでして、重き拷問を受けた。どれだ泥水をすすったことか。あなたは不実な方だ。女というのは心底惚れた男のためなら何でもする。なぜ、火を付けたのか、わかるだろう。

さらに、梅津が驚く事実を突きつける。私の身を案じていてくれると思ったら、お兼という女と夫婦同様の暮らしをしていたとか…。牢で会ったんですよ。「一日も早く梅津様に会いたい」と言っていました。今は草葉の陰で見ているでしょうね。いえ、殺ってなんかいませんよ。病死です。

「望むのは私たち夫婦で少しばかり贅沢ができるお金です」。梅津は「ここに十両ある。これ以上は出せぬ」と何とかお虎を追い返した。そのとき、ずっと聞き耳を立てていたお峰は「父の仇がわかりました。ありがとうございます」と、お虎に礼を言うと、叔父に仔細を述べ、お奉行に駆け込んだ。

お虎は八丁堀岡崎町の自宅に戻ると、喜三郎に十両を見せる。喜三郎は「お前、五十両にも百両にもなると言ったじゃないか」と言うと、お虎は「お前さんの貰った十両とは価値が違うんだ。これっきりというわけにはいかない。これは手付で、月に十五両、少しずつ貰えばいい」。

そこへ「ごめんくださいまし」と乞食坊主が訪ねてくる。「喜三郎さんとお虎さんのお宅ですか」。何と、一緒に島抜けした玄若だった。悪い病に罹り、腫物だらけの体になってしまった、木賃宿にも泊まれず、橋の下や草むらで寝起きしていて、野垂れ死にするしかなくなってしまった。そんなとき、道でお虎さんを見かけたという。

玄若を湯で洗ってやり、飯を食わせてやると、喜三郎は浜町の賭場へ出掛ける。これがお虎と喜三郎の今生の別れになろうとは。床に就いた玄若は時々大きな寝言を発する。「おふゆを殺すつもりはなかったんだ。喜三郎さんやお虎さんに迷惑はかけられない」等々。お虎が玄若を起こして問い質すと、玄若は三宅島時代に懇ろになったおふゆという女がいたが、島抜けをすることを打ち明けると、一緒に連れて行ってくれと言うので、首を絞めて殺して縁の下に埋めたのだという。

お虎は一向に寝言が止まない玄若を邪魔に思い、脇差で刺して殺し、布団に包んだ。そして、表に出ようとしたときに、大勢の捕方に囲まれ、「御用だ!」。「仕方ありませんね」と言って、牢に入る。

梅津長門はお峰の訴人により、死罪が決まるも、武士ゆえに切腹が許され、「お兼、待っていろ」と言って、果てた。

お虎は強情で、玄若を手に掛けたことを認めず、「世を儚んで己で命を絶った」と最後まで主張。市中引き回しの上、小塚原で討ち首となった。そのときも笑みを浮かべていたという。

喜三郎も死罪となったが、牢名主としての働きが評価され、御赦免となった。島抜けした5人の中で一人だけ、畳の上で暮らして死ぬことができたという。この世に生を受けている証しとして、これまで見聞きしたことを書き残したのが「嶋鵆沖白浪」だという…。談洲楼燕枝師匠の名作、ここに大団円である。