朝枝の会 春風亭朝枝「夜鷹そばや」、そして神田松麻呂の日本縦断講談会「萱野三平重実」

「朝枝の会~音曲噺の世界」に行きました。春風亭朝枝さんが「たらちね」「掛取萬歳」「夜鷹そばや」の三席。開口一番は三遊亭東村山さんで「平林」、ゲストは桂枝平さんで「死ぬなら今」だった。

音曲噺は「掛取萬歳」で、狂歌、芝居、喧嘩、三河萬歳という本寸法。達者な腕を見せてくれた。特に三味線と太鼓が入った芝居好きの酒屋の番頭の件。八五郎が芝居の世界を展開して、番頭を上機嫌にして借金をはぐらかすところは実に見事であった。

「夜鷹そばや」は泣ける。年寄り夫婦がやっている蕎麦屋で蕎麦三杯を食べた宗吉という男。「朝から何も食べていなかった。こんなに美味い蕎麦を食べたのは久しぶりだ」と言った後、「懐に一文もない。蕎麦三杯を踏み倒した罪で自身番に突き出してくれ」と言う。五歳で二親と死に別れ、親類に預けられたが、十八のときに飛び出して、大坂の造り酒屋に奉公して可愛がられたが、謂れの無い誹りが辛く、店を出て江戸へ戻り、悪いことに手を染めるようになったという…。

年寄り夫婦はこの男を不憫に思い、兎に角店仕舞いするので、荷を家まで運んでから自身番に行っても遅くないだろうと引き留める。爺さんは四十のときからこの商売を始めて二十年、荷を担ぐのも辛い。見かねた男が荷を担いで家まで運んでやった。私たちには子どもが授からなかった、こうして商売をしているのもご贔屓客と世間話しているのが唯一の楽しみで続けていると爺さん。

折角だから、あがっていってお茶でも召し上がってくださいと言われ、男は言葉に甘える。婆さんがお茶ではなく一升徳利を持って来て、ハゼの佃煮を肴に一杯やりましょうと誘う。爺さんが「仕事が終わって飲む酒は美味い」と言うと、婆さんが「そういえば、ここまで荷を運んでくれたお手当はどうするんですか」。「蕎麦三杯差っ引きすればいい。そうすれば自身番に届けなくていい」と爺さんは言い、「泊る所もないのでしょう。一晩、泊まっておいきなさい」。

男が「俺は足を踏み外した男だ。何かあったら、お前さんたちが困るのではないか」と言うも、爺さんは「婆さん、銭を持って行きやすいように財布に入れて、置いておきなさい」。身寄り頼りのない男を何とか救ってあげたいという気持ちが溢れるようで、グッとくる。

爺さんはお願いがあるという。世間の親たちは子どもから「ちゃん!」と言われて羨ましい、どうか自分を「ちゃん!」と呼んでほしい、ただとは言わない、一朱出す、年寄りを喜ばすと思って言ってくれないか。男は「言ったことがない。できるかな」と戸惑いながら、「ちゃん!」と呼ぶ。「ああ、いい響きだ」。婆さんが私にもお願いしますと言って、「おっかあ!」「あいよ」「何だか嬉しいわ」。

今度は二朱出すから呼び捨てにさせてくれ、名前は何と言うんだい?と訊き、「宗吉」と判ると、「宗吉!」「何だい?ちゃん」「ありがたい」。婆さんは小言を言わせてくれと言い出し、「この子はどこを遊び歩いていたの。親に心配かけさせるんじゃないよ!」「すまねえ、おっかあ」。疑似親子ごっこがエスカレートしていく。

最後に宗吉に言わせる言葉が滲みる。「ちゃん!お前、いつまで蕎麦屋をやっているんだ。俺はもう子どもじゃないんだから。俺に任せてくれよ」。爺さんは「年寄りの遊びに付き合ってくれてありがとう」と涙を流して感謝する。すると、宗吉は「頼みがある。俺、蕎麦屋を手伝いたい。倅と呼んでくれないか」「倅や!」「ちゃん!」。嘘から出た実(まこと)とはこのことか。素敵な人情噺である。

「神田松麻呂の日本縦断講談会―赤穂義士伝編―」に行きました。「赤穂義士銘々伝 赤垣源蔵 徳利の別れ」と「赤穂義士外伝 萱野三平重実」の二席。

「萱野三平」はドラマチックだった。旭堂南海先生に習ったそうだ。摂津国萱野村の大百姓、萱野七郎右衛門の長男と次男は大島家に行って侍となった。三男は早逝、四男の三平が跡目を継ぐものと考えていた。

しかし、三平は十歳のとき、「兄たちのように侍になりたい」と希望し、父は猛反対したが、母こまんが「三平が侍に憧れるのは当然のこと」と弁護し、「二十歳になったら戻って家督を継ぐ」という約束で大島家に相談、浅野家の小姓となり、二十歳になると江戸詰めに昇進した。「二十歳まで」という約束だったので、母から再三手紙が来たが、三平はこれに返事を出さず、そのままになっていた。

元禄十四年、浅野内匠頭刃傷。このとき二十六歳だった三平は速水藤左衛門とともに早駕籠で赤穂の大石邸まで第一報を知らせる役目を命じられ、江戸を出立した。四日半で到着の予定だったが、到着前日の夕刻に駕籠が止まった。野辺の送りがあり、それを遮ることが憚られたのだ。三平が駕籠の外に出ると、「三平殿では?」と声を掛ける人がいる。萱野村の百姓だった。七郎右衛門がこれを知り、三平に告げる。「お前の母が亡くなったのだ。ちょうど良い。弔いに加われ」。

三平は驚いたが、「弔いに加わることはできない」と拒む。主君の一大事を早く大石様に知らせなければいけないと考えたのだ。母は手紙の返事がないことに、「江戸の暮らしに満足しているのであろう。そのままにしてやってください」と言っていたという。三平は親子の情を振り切って、早駕籠に乗り、立ち去った。父の七郎右衛門も辛かったであろう。

大石邸に到着し、殿刃傷切腹を伝える。城は明け渡し、家臣たちは散り散りになった。内蔵助は「必ずや御首級(みしるし)を頂戴する。それまで、じっと耐えるように。他言は無用だ」と言って、義党を集めた。その中には萱野三平もいる。三平は母の菩提を弔おうと、故郷に戻り、父の前に着座して、不義理を詫びた。そして、母の仏前で「只今、帰りました。お許しください」と手を合わせた。父が「約束は忘れていないだろうな。跡目はしっかりと継いでおくれ」と言うと、三平は「お願いがあります。奥の屋敷ではなく、長屋門で暮させてください」。それは、いつ義党の遣いが仇討について伝えにくるかわからない、それに備えるためだった。

ある日、大高源吾がやって来た。「江戸で急進派が準備をはじめた。山科の大石殿にそれを報告に来た」。三平は「仇討は近きにありか」と思う。二日後、父が「お前の嫁を選んだ」と言いに来た。数百の百姓を束ねる萱野家の跡継ぎをしっかり勤めてほしいという思いからだ。美濃村のお袖という十七歳の娘は承諾しており、年明けに祝言を挙げるつもりだという。三平は「実は大石様の推挙で津山の池田家に仕官することが決まった」と嘘をつく。父は「忠臣二君に仕えずだ。筋が違う。わしが大石様に断りの手紙を書く」と怒る。三平は「私が断ります」と収めた。

ある日、今度は寺坂吉右衛門がやって来た。「急進派を収めることはできた。御家再興が叶わぬときは仇討もある。だが、何年かかるか、わからぬ」と言う。元禄十五年の正月を迎えた。祝言は十四日。三平は前日に新山村の姉を訪ねたが、「明日は祝言。楽しみにしている」と言われるだけだった。

そして、当日。朝を迎えても三平が起きてこない。父が長屋門の部屋を開けると、そこには小机を前にして、腹を短刀で斬って冷たくなっている息子、三平がいた。小机には書面があり、浅野家への忠を取るか、父母への孝を取るか、進退窮まった旨が書かれ、「他言は無用」としていた。そして、辞世の句を認めていた。晴れゆくや日頃心の花曇り。「池田家への仕官は口実だったのか…さぞ、つらかったろう」。七郎右衛門は美濃村へ出向き、お袖の父に頭を下げ、謝罪した。そして、山科へ向かい、大石内蔵助に面会。三平が遺した書面を読んでもらった。大石は言う。「萱野も辛い思いをしたろう。父親として当たり前のことです。悪いのはこの大石です。何もしてやれなかった」。そう言って、「最後の三平の願いを叶えてやれよ」。そう、他言は無用。

その年、極月十四日、吉良邸討ち入り。大石内蔵助が敵の鳥居伊右衛門を槍で突いたとき、「討ち取ったのは萱野三平である!」と叫び、三平の書面を置いたという。見事仇討本懐を遂げて、回向院に赤穂義士が揃った。係の者が「数が合いません。萱野三平殿はおりますか?」と訊くと、誰となく「萱野はおりますぞ」「どちらに?」。すると、大石が「萱野は我らのここにおります」と言って、胸を差したという。四十八人目の義士、萱野三平。松麻呂さんが「外伝ではなく、銘々伝でも良いと思う」と言ったのが印象的だった。