【アナザーストーリーズ 】湯川秀樹 日本初のノーベル賞~世紀の頭脳に日本が熱狂した~

NHK―BSで「アナザーストーリーズ 湯川秀樹 日本初のノーベル賞~世紀の頭脳に日本が熱狂した~」を観ました。

1949年というから、終戦から4年後のことである。まだ占領下だった日本に大きなニュースが飛び込んだ。敗戦で自信を喪失し、下山事件や三鷹事件といった不穏な世相が渦巻いていたときに、明るい報せが届いたと言っていいだろう。まだ国民はノーベル賞の存在も知らない人が多く、ましてや中間子論なんてチンプンカンプン、でも日本の学者先生が世界的に名誉な賞を獲ったということで日本列島は湯川フィーバーとなったというのは想像に難くない。

昭和天皇が喜んだということが、宮内庁長官から湯川へ送った書簡に記されている。「天皇陛下に拝謁の際、非常にお喜びのご様子、湯川博士の受賞こそホントの朗報だとの旨、一同爆笑とともに感激し候」。全国巡幸の際にはこのような歌を詠んだという。うれひなくまなびの道に博士らを つかしめてこそ国はさかえめ。日本の戦後復興にサイエンス、学問は大事であるとの考えである。

湯川は中間子の存在を予測したことが評価された。陽子と中性子との間で中間子が交換され原子核が結合する。コロンビア大学の教授だった湯川はスウェーデンのストックホルムでの授賞式を終え、翌年に日本へ帰国し、歓迎ムード一色だった。高知県夜須町(現・香南市)の小学校には日本で初めての湯川秀樹の銅像が建てられ、「わが子らよ 先生のごとく偉大なれ」と刻まれている。当時小学校3年生だった清遠豊は科学に目覚め、京都大学に入学、湯川の教え子になっている。このように湯川に刺激を受けて京大理学部に進学した同級生が沢山いたそうだ。

湯川が授賞式のためにスウェーデンに滞在したときの日記に歌が認められている。忘れめや海の彼方の同胞はあすのたつきに今日もわづらふ。華やかな受賞とは対照的に、日本では明日の暮らしにも困っている人たちが多くいることに心を痛めていたことがわかる。

湯川記念館の史料室には4万点の遺品が整理され、解析されている。その中に研究室日記という1941年から45年に書かれたものがある。そこに1943年に文部省が発表した科学動員要綱のことについて書かれている。科学の研究は戦争に貢献しなければならないという政府の方針に、「いよいよわれわれ理論物理学者も転進すべき時がきた」としている。1935年、28歳で中間子論を発表した湯川は文化勲章を受け、国が期待した。核物理学は何をやるべきか。京大で「F研究」と称された原爆研究のグループに参加した。戦後はGHQの取調べも受けている。湯川は軍事研究に携わったことを反省した。

湯川がコロンビア大学の教授に招いたのはロバート・オッペンハイマーだった。原子爆弾を開発した男である。湯川はそこでアルバート・アインシュタインと出会う。アインシュタインもまた核軍縮を主張し、危険な兵器を作った原子物理学を悲しみ、反省していた。湯川とアインシュタインとの間に友情が生まれたという。

「原爆は語りたくない」と考えた湯川は帰国すると、京都大学基礎物理学研究所所長になり、研究に没頭した。だが、1954年、アメリカによるビキニ環礁水爆実験がおこなわれ、第五福竜丸の漁船員らが被ばくした。放射能を浴びたマグロは買いたくないと日本中がパニックになった。

高知県夜須町の小学校で湯川の銅像の除幕式がおこなわれたとき、マスコミが押し寄せ、水爆問題への質問が浴びせられたが、湯川はノーコメントを貫いた。被ばくした漁船は180隻、船員は3000人、そのうち高知県の船が最多だった。

そして、湯川は沈黙を破る。毎日新聞に「原子力と人類の危機」と題した声明文を寄稿したのだ。またも日本人が被害者になった。原子力の猛獣はもはや飼主の手でも完全に制御できない。狂暴性を発揮しはじめたのである。原子力の脅威から人類が自己を守るという目的は他の目的より上位におかれるべきではなかろうか。

核兵器と戦争の廃絶を訴える科学者の国際会議、パグウォッシュ会議が開かれた。それでも1960年代、米・ソ・英・仏・中と核兵器保有国は増え続けた。しかし、湯川の姿勢はぶれることがなかった。1962年にはじまった科学者京都会議は物理学者のほか、文学者、哲学者、政治学者、経済学者が参加し、議論が重ねられた。この会議は1981年まで続く。

湯川は68歳で前立腺がんを患い、手術を受けた。1975年に京都で開かれたパグウォッシュシンポジウムでは核兵器廃絶のメッセージを訴えた。81年、亡くなる三か月前の科学者京都会議には病院を抜け出し参加、一切の核兵器をなくし世界平和を願う宣言をした。執念である。

湯川のノーベル賞に影響を受けた少年だった田中煕巳は93歳にして、日本原水爆被害者団体協議会(被団協)の代表委員を務めている。長崎で被爆し、助かったが、親族5人を失った。高校で物理学に興味を持ったときに、湯川のノーベル賞受賞のニュースを知った。湯川さんのようになりたいと願ったが、貧乏ゆえに大学進学を断念し、東大生協に就職した。1954年のビキニ事件で「ジッとしていられなかった」、原水爆反対の署名活動を始め、東京理科大に入学、被団協に合流した。

湯川は1956年、国の原子力発電を検討する原子力委員会のメンバーとなり、「基礎研究の必要性」を説いたが受け入れられず、抗議の辞任をする。原子力のは危険がはらんでいる。科学は正しく活用しなければいけない。学問は両刃の剣、常に自戒しながら科学者は勉強しなければならないと訴えた。

1981年に湯川が逝去しても、被団協は活動を継続した。ノーモアヒロシマ、ノーモアナガサキ。その活動が評価され、2024年に被団協はノーベル平和賞を受賞した。湯川秀樹から数えて日本では29番目の快挙だった。そして、過去の資料から、1966年に湯川がノーベル平和賞の候補に挙げられていたことも判った。

戦争が続いている現在の世界を天国の湯川秀樹はどう見ているのだろうか。世界中の人々が平和という喜びを享受できる日が一日も早く来ることを願う。