【名盤ドキュメント】テレサ・テン アジアの歌姫は何を歌ったのか?

NHK―BSで「名盤ドキュメント テレサ・テン アジアの歌姫は何を歌ったのか?」を観ました。
1953年に台湾で生まれたテレサ・テンは14歳のときに歌手デビュー、17歳で香港や東南アジアに活動の場を広げ、1974年に20歳で日本でのデビューを果たした。当時、「雨の御堂筋」の欧陽菲菲、「ひなげしの花」のアグネス・チャンなどが人気を博していた。デビュー曲は筒美京平作曲の「今夜かしら明日かしら」、全く売れなかった。そこで、ポップス路線から演歌へ軌道修正して、リリースしたのが「空港」。猪俣公章作曲で、80万枚のヒットを記録した。
だが、1979年に不法入国で国外退去を命じられ、日本をしばらく離れることになる。1984年、5年ぶりに復帰。三木たかし作曲、荒木とよひさ作詞の「つぐない」が150万枚のセールスをあげた。
愛をつぐなえば 別れになるけど こんな女でも 忘れないでね。日本滞在が長期間できないテレサのプロモーションを有線放送を中心におこなったことが功を奏した。だが、それ以上にヒットを生んだ要因はその作品性にある。三木たかしは「邪魔にならないインストロメンタルのような、ポールモーリアのエーゲ海の真珠のような」曲調を意識したという。そして、歌詞。「窓に西陽があたる部屋は いつもあなたの匂いがするわ」。しっとりと部屋で待つ女性像がテレサの歌声にフィットしたのだ。
文化大革命の後の80年代の中国では「恋の歌」は歌うことも、聴くことも公では不健全とされた。国民はテレサの歌をこっそり聴いていたという。「昼は鄧小平が支配し、夜はテレサ・テンが支配した」と言われたほどで、人々はその歌の“人間的ぬくもり”に魅了されたのだった。
1985年の「愛人」は不倫をテーマにした曲だ。あなたが好きだから それでいいのよ たとえ一緒に街を歩けなくても。テレサは当時、ロンドンに在住していて、この歌を提示したとき、「なぜこんな歌を歌わなければいけないのか」と困惑、反発したという。日本では「不倫」がトレンドワードになっている時代だった。日本では愛人=不倫を意味するが、中国では愛人=配偶者を意味する。そうやって折り合いをつけて、彼女はレコーディングに臨んだ。
アビーロードの外国人ミュージシャンたちはテレサの歌声を「シルキーボイス」と呼んで賞賛した。尽くして泣きぬれて そして愛されて 時がふたりを離さぬように 見つめて寄り添って そして抱きしめて このままあなたの胸で暮したい。作詞の荒木とよひさは「て」を反復することを意識したという。「て」の部分はすべて裏拍。そして「暮らしたい」で表拍を強調している。女性の「哀れ」ではなく、「おしゃれ」「自立」がそこに込められている。
今回の番組の出演者たちの多くが好きな曲の第1位に挙げたのが1987年の「別れの予感」だった。泣き出してしまいそう 痛いほど好きだから どこにも行かないで 息を止めて そばにいて あなたをこれ以上愛するなんて わたしには出来ない。この曲に「別れ」という言葉は出てこない。だが、そこに荒木は「人はなぜ生まれて、どこに行くのか。必ず別れがあるんだよ」というメッセージをこめたと言う。テレサはそんな歌が似合う「寂しい人」だったのかもしれない。
そして、1986年の「時の流れに身をまかせ」。売り上げ200万枚はテレサ最大のヒット曲である。もしもあなたと逢えずにいたら わたしは何をしてたでしょうか。もしもあなたに嫌われたなら 明日という日失くしてしまうわ。荒木は「もしも」の塊、それが人生のテーマだという。そして、「山登りの歌」だとも。だからお願い そばに置いてね いまはあなたしか見えないの。この「そば」。「そ」から「ば」で音の高さが急上昇する。「だからお願い 夢をください」では駄目なんだ、と。これが名曲と言われる由縁なのだろう。
1989年、天安門事件が起きた。テレサは香港で開催されたチャリティーコンサートの参加している。中国に新しい希望を与えたい。それをサポートしたい。そう考えていた。だが、民主化弾圧に失望し、90年代はパリに移住。表舞台から消えた。
1995年5月8日。タイのチェンマイでぜんそくによる呼吸困難で逝去。享年四十二。アジアの歌姫は日本語の歌を中国語にして歌い伝える活動に熱心だったという。彼女のお陰で「北国の春」や「昴」は中国でも人気の曲になった。だからこそ、テレサ・テンの歌を私たちは歌い継いでいかなくてはならない。