シス・カンパニー「昭和から騒ぎ」、そして歌舞伎「土屋主税」

配信でシス・カンパニー公演「昭和から騒ぎ」を観ました。原作:ウィリアム・シェイクスピア(河合祥一郎訳「新訳 から騒ぎ」角川文庫より)、翻案・演出:三谷幸喜。
河合先生によれば、「から騒ぎ」が書かれたのは1598年から99年頃で、円熟喜劇と言われるジャンルを書き始めた時期だそうだ。歴史劇から始まり、「夏の夜の夢」のような初期喜劇を書き、だんだん腕が上がって、「から騒ぎ」「お気に召すまま」「十二夜」という円熟喜劇を書いた。その後、「ハムレット」などの悲劇時代に入るという。
三谷幸喜氏いわく「お節介な人たちがしなくていい余計なことをしてどんどん泥沼にハマっていく感じを、戦後の日本に置き換えたら面白いんじゃないかと思った」とプログラムの巻頭に「大騒ぎしながらみんなで盆踊り」と題して語っている。
シェイクスピアが繰り出す「無理筋案件」を、三谷氏は原作以上に無理筋にして、河合先生に「シェイクスピアをさらにシェイクスピア化している」と言わしめる台本にして、これぞ喜劇の神髄と唸らせる舞台にしているのは、三谷幸喜の真骨頂だろう。
そういう意味において、今回の芝居の立役者は、衝立という小道具と、山崎一演じる巡査・毒淵だと思った。毒淵が「よかれ」と思って、次々と思い付く狂言の通りに他の登場人物が動くことで、問題が解決するどころか、益々混乱をきたす。誰かになりすましたり、入れ違いに予想外の人が現れたりするシチュエーションコメディ的なドタバタが鎌倉の鳴門教授(高橋克実)宅で展開していき、可笑しくてしょうがない。
お互いに恋心を抱いていた定九郎(竜星涼)とひろこ(松本穂香)の仲が一旦壊れてしまうが、最終的に結びつく。そればかりか、定九郎の先輩役者である木偶太郎(大泉洋)とひろこの姉のびわこ(宮沢りえ)は憎まれ口ばかり叩き合っている険悪な関係だったのに、最終盤では思い合うという…。人の話に首を突っ込まずにはいられない毒淵のお節介がなんやかんやで大団円を迎えるカタルシスが良い。
毒淵を演じる山崎一がプログラムのインタビューの中でこう語っている。
シェイクスピアが美しい言葉の中に人間の醜い部分を映し出しているように、この「昭和から騒ぎ」でも人間の愚かさが見えてくる。でも、愚かだからこそ愛おしくなるような、泣き笑いの人情劇になる気がしています。以上、抜粋。
「原作:シェイクスピア」と書かれていなければ、オリジナル?と思うくらいに笑いが成立しているところに三谷幸喜の素晴らしさを感じた。
歌舞伎鑑賞教室に行きました。玩辞楼十二曲の内「土屋主税」一幕二場。
宗匠の晋其角を訪れた大高源吾が苦渋の末につく嘘。西国の大名に召し抱えられ、別れを告げに来た、明日になればどの大名に仕えるか判るという。主従は三世と言われていた時代に「二君に仕える」のは軽蔑の対象だが、仇討ちの計画を漏らすわけにはいかない。俳諧仲間の落合其月はこれを聞いて激昂する。元の主君の無念を晴らそうとせずに、別の主君に仕えるとは武士の風上にもおけないと罵るのだ。それでも源吾は「武士の恥より飢えの恥が苦しい」と肚にないことを言うと、其月に足蹴にされてしまう。源吾の意志の固さを思う。
この話を其角から聞いた土屋主税の聡明。其角が「年の瀬や水の流れと人の身は」と詠んだ句に対し、源吾が「あした待たるるその宝船」と下の句を付けたことを深く読み取る。勝田新左衛門の妹で、侍女を勤めているお園が赤穂浪士の妹として武士の魂をお目にかけると懐剣を取り出して自害しようとするのを土屋は止め、「赤穂浪士は大の忠臣だ」と言う。「あした待たるる」の本当の意味…それは新しい主君に仕えることではなく、仇討ち本懐を遂げるという意味だと読み取ったのだ。
やがて、隣家の吉良邸から太刀を打ち合う音が聞こえ、赤穂浪士が討ち入ったという報せが舞い込む。土屋が見こんだ通りだったのだ。そこに大高源吾が飛び込んで来る。侮辱に甘んじていたが、一転して晴れやかな姿だ。土屋も赤穂浪士の艱難辛苦を思い、感慨深く褒め讃える。兄の勝田新左衛門も立派な働きをしたと聞いて、お園も喜ぶ。「浅野殿は良い家来を持たれた」という土屋主税の最後の言葉が印象的だった。
土屋主税:中村扇雀、侍女お園:坂東新悟、大高源吾:中村錦之助、晋其角:嵐橘三郎、落合其月:市川青虎