津の守講談会 一龍斎貞花「恋女房染分手綱」神田織音「赤ひげ診療譚」、そして真山隼人ツキイチ独演会「改心亭」

津の守講談会二日目に行きました。

「三方ヶ原軍記」田辺凌々/「後藤又兵衛 唐犬退治」宝井優星/「大久保彦左衛門 木村の梅」神田おりびあ/「北斎と文晁」田辺凌天/「紺屋高尾」一龍斎貞友/中入り/「赤ひげ診療譚 狂女の話」神田織音/「恋女房染分手綱」一龍斎貞花

織音先生の「赤ひげ診療譚」。貧乏な庶民を救う小石川養生所に見習い医として無理やり配属された保本登は、3年間長崎で最新の西洋医学を学んで、幕府のお目見え医者になる気でいたので落胆していた。だが、院長の“赤ひげ”こと新出去定の「医療技術は医者のものではない。患者のものだ」という考えを次第に理解するようになっていく姿が美しい。

おゆみという女性患者が病棟から隔離された離れに一人閉じ込められている。院長の見立ては“亡心”だ。その美貌ゆえ、幼少時に手代に悪戯され、「他人に言ったら殺すぞ」と脅された。また隣家に住む男にも性的虐待を受け、同じく「他人に言ったら殺すぞ」と呪いの言葉を言われた。そして、婿を迎える話は、産みの母親が父親ではない男と駆け落ちして心中したことが原因で破談になった。

おゆみの心の傷はなるべく人と会わないで、ゆっくりと根気強く、癒していくしかないと院長は考えたのだ。そうすれば、人の心を取り戻すことができるという判断だった。これまでにおゆみを手籠めにしようとした男を簪で刺し殺したということも起因している。

おゆみの世話をしているお杉を介して、保本は酒を飲んで離れの傍の納屋に寝転がっていた。そこに離れから飛び出したおゆみがやって来て、簪で保本のことを刺そうとする。保本が逃げようとすると、身体の自由が利かなくて、動けない。保本が飲んだ酒には院長がおゆみに処方した痺れ薬が入っていたのだった。

院長の新出去定が慌てて駆け付け、何とか事なきを得た。「危ないところだった」と院長は言う。院長の腕には包帯が巻かれ、その下にはおゆみに刺された五カ所ほどの傷があった。それを見て、保本はハラハラと涙をこぼした。院長は言う。「この養生所で学びなさい」。医療とは何か…保本もここで学びたいと思ったことだろう。医学書には書いていない、医療の根本がこの小石川養生所にはある。患者に寄り添った医療について考えさせられる読み物だった。

貞花先生の「恋女房染分手綱」。文楽や歌舞伎でよく上演される「重の井子別れの段」の前後を膨らませ、さらに新たな要素を加えてアレンジした聴き応えのある高座だった。

伊達与作は重の井と不義密通をしたために、丹波国由留木家を追われたのではなく、きちんと結婚したのだが、与作の父の与太夫が重の井の父である幾右衛門を殺害したために追放されたとしている。これが最終盤の展開に生きてくる。重の井は調姫の乳母となるが、与作との間に産まれた息子・与之助は里子に出す。

11年後。調姫が政略結婚で入間家に嫁入りすることになり、重の井も付き添って、東へ下る旅に出る。だが、調姫は「いやじゃ、いやじゃ」と駄々をこねる。すると、ご機嫌取りにこの土地の馬子に馬子唄を唄っもらい、道中双六で遊んでもらってはどうかという女中の提案があり、自然薯の三吉という姫と同じ年恰好の男の子が呼ばれ、唄を披露し、双六で遊び、姫も機嫌が戻った。

重の井が礼を言うために現れると、三吉は「カカさまじゃ!」としがみつく。そして、証拠の品として古金襴の守り袋を見せる。果たして、三吉は重の井の実子、与之助だった。だが、抱いたり、頬ずりをしたりすることができない。賤しい馬方が自分の息子だと知られたくない。三吉は「いっそ、会わなければ良かった」と言うと、重の井は「あなたのことは片時も忘れたことはない」。重の井は金子を渡そうとするが、三吉は「親でもなければ、子でもないと言われて受け取れるか」と拒む。そして、馬子唄を唄って調姫が出発するのを見送るのだった。

一方、与作は関の宿で馬方をして、宿場女郎の小まんと深い仲になっていた。そして、三吉を自分の子とは知らずに馬子として雇っていた。馬方では儲からず、博奕に手を出した結果、大きな借金を拵え、石部の八蔵という男に返済を迫られる。いっそ、駆け落ちしようかと小まんと話しているところに、三吉がやってきて、「三両ならある」と言う。だが、それだけでは到底足りないと断る。

三吉は与作を助けようと、調姫らの泊まる本陣へ忍びこみ、葛籠に手を掛けたが見つかってしまい、逃げてくる。そして、古金襴の守り袋を見せる。中の書付を読むと、「幾右衛門嫡子与之助」と書いてある。三吉は我が子、与之助だったのか!と初めて知る。

そこへ4、5人の侍が窃盗未遂した与之助を追ってきた。与作は「唆したのは私です」と言うが、与之助は「違います!」と叫ぶ。そこに「暫くの対面じゃのう」と現れたのは与作の父、与太夫。「わしの首を討って、家を継ぐがいいぞ。この子を侍にして世に出せ」と言い、脇差を自らの腹に突き立てる。「与作、与之助、お前らは侍として親子の名乗りをするがよいぞ。わしの息があるうちに早く討て」。与作は与之助に「大きくなったら理由が判る」と言って、与太夫の首を討った。

そこに重の井が駆け付ける。「与作殿!」。悲しみと嬉しさが一気に溢れ出す。この後、三吉こと与之助は入間家の家臣、本田弥惣左衛門の預かりとなり、晴れて正式に親子の対面を果たす。また、与作は重の井の実父・幾右衛門の相続が許された。関の小まんも重の井が恩返しとして、残りの人生を安楽に暮らしたという…。文楽や歌舞伎の「恋女房染分手綱」とはまた一味違うストーリーに感服した。

「真山隼人ツキイチ独演会」に行きました。「男の勝負」「改心亭」「勧進帳」の三席。曲師は沢村さくらさん。

「男の勝負」は入門して15年経った30歳の隼人さんの浪曲人生を振り返る自伝的エッセイ浪曲。中学を卒業して、ラジオで聴いた初代真山一郎に憧れ、その一番弟子である広若(のちの二代目真山一郎)に入門、諸事情あって真山誠太郎門下に移籍、歌謡浪曲から三味線浪曲への路線変更などユーモアたっぷりに語った。でも、一番大きいのは曲師である沢村さくらとの出会いだろう。今こそ、隼人さんの浪曲にさくらさんの三味線は一心同体と言っていいほど欠かせないが、そこに至るまでには隼人さんの情熱があった。そして、2021年に急性硬膜外血腫で倒れたときには、さくらさんが発見しなかったら、今日の真山隼人は存在しない。良き芸のパートナーを得て、益々活躍の場を広げていく姿は頼もしい。

「改心亭」は天龍三郎先生から京山小円嬢先生を経て伝わった作品。素敵な読み物だった。内務大臣の山県有朋宅に三人組の強盗が入ったとき、夫人は怯えもせずに「真人間になれ。一人10円ずつあげるから、九州にでも行って修業しなさい」と諭したという。罪を憎んで、人を憎まず。結局、三人は捕まって、石川島刑務所に入るが、山県有朋視察に際に懺悔し、模範囚を貫くと、懲役9年のところを6年で仮出獄した。

まずは山県夫人に「御礼とお詫び」をしに行こうと訪ねると、執事が出てきて「きょうは大事な用があってお会いできない。また改めて遊びにきてくださいとのことです」と言って、門出祝いに100円を渡す。そして、歌を贈った。「水鳥の行くも帰るもなけれども誠の道を忘れるなかれ」。

三人は「奥様によく改心したと褒めてもらいたかった」と言うと、執事は「そんなに奥様を慕っていたのか」と知り、真実を話す。実は去年9月に亡くなっていたのだった。今わの際に「石川島の三人は今頃どうしているでしょうね」と言っていたという…。

前科七犯の三人はその後、浅草に腰掛け茶屋を開業し、その名を「改心亭」として大層繁盛したという。何とも素敵な読み物ではないか。

「勧進帳」。歌舞伎の附け打ちである山崎徹さんをゲストに迎え、附け入りの浪曲として披露してくれた。これが思いのほか良かった。歌舞伎の「勧進帳」はそれほど附けが入る箇所はない。最後の弁慶の飛び六方は印象的ではあるが。富樫と弁慶のやりとり、いわゆる山伏問答のところがすごかった。三味線、附け、啖呵が相まって、実に効果的に胸に響いた。富樫の人情、義経の感謝、弁慶の漢気。これらが浪曲ならではの演出で聴ける喜びがある高座だった。