語る―人生の贈りもの― 歌舞伎俳優 片岡仁左衛門

朝日新聞の連載「語る―人生の贈りもの― 歌舞伎俳優 片岡仁左衛門」(全15回)を読みました。

仁左衛門さんは1949年に本名の片岡孝夫で初舞台を踏んだ。父親が13代目仁左衛門。さぞ名門の出で順風満帆な船出であったろうと思っていたが、そうでもなかったらしい。1950年代後半、関西では歌舞伎の人気が低迷し、公演数も減り、たまにある時でも「名作まつり」とか「秋の演劇祭」というように、兎に角公演名から「歌舞伎」の文字を外したのだという。関西の歌舞伎役者は「芝居に飢えている」状況で、興隆する映画の世界に活動の場を移す人が相次いだそうだ。

そういう状況を憂いて、父の13代目仁左衛門は自主公演「仁左衛門歌舞伎」を1962年にスタートさせる。松竹や周囲の人は「絶対に成功しない」「大変な赤字になる」と心配し、猛反対した。だが、父は「最悪、京都の自宅を売る覚悟」と言って、家族会議で全員の了承を得て強行した。すると、その自主公演は連日立ち見も出る盛況となった。

当時の公演では通常、長い物語の名場面を抜き出して上演することが多く、その場に行き着くまでの筋がわかりにくい。父は普段は出ない場面を復活し、通し上演したことが功を奏した。64年、その仁左衛門歌舞伎第3回の「女殺油地獄」で孝夫は放蕩息子の与兵衛を演じ、当たり役となった。

「当時、私は二十歳。若さしかありませんから、本当に“生”で未熟でした。でも、その頃のお客様は、そんなに若い与兵衛をご覧になったことがなかったので、非常に新鮮に感じたのでしょう。継父・徳兵衛を父、兄を長兄の片岡我當、妹を次兄の片岡秀太郎が演じたこともあり、リアルに、ストレートに伝わったのだと思います」。

1971年に新橋演舞場で始まった若手中心の公演に加わる。この頃から坂東玉三郎との共演が増えていった。「於染久松色読販(お染の七役)」で玉三郎が土手のお六、一緒に強請りを働く鬼門の喜兵衛を孝夫が演じた。喜の字屋のおじさん(守田勘弥、玉三郎の養父)が「どうしてもやれ」と勧めたという。これが話題を呼んだ。

玉三郎と孝夫のコンビは「孝玉」と呼ばれ、私設ファンクラブも生まれたほどだった。中でも「桜姫東文章」は伝説的人気を誇った。玉三郎が桜姫、孝夫がその姫の数奇な運命に関わる高僧清玄と盗賊の釣鐘権助を演じた。82年の南座の公演のときに写真家の大倉舜二さんが撮影した桜姫と権助のポスターは貼り出すと、すぐに誰かに持ち去られてしまうという現象まで起きたという。2021年にその「桜姫東文章」を36年ぶりに再演し、大きな話題となった。このコロナ禍で、いかにお客様を呼べるか。松竹と玉三郎と相談したという。

6歳年下の玉三郎とは芝居をめぐり意見を戦わせた。

「幕が閉まると、すぐに喧嘩を始めて、言い争いながら隣り合った楽屋に帰っていくんです。当時の新橋演舞場の楽屋は、広い部屋を壁で間仕切りして個室を作っていました。窓と壁の間に隙間があるから、声がよく聞こえるんです。楽屋に入っても壁越しで言い争ってね」。

1998年に15代目片岡仁左衛門を襲名した。襲名までの約50年、本名の孝夫を名乗ったのは歌舞伎界では異例のことだった。魅力ある名前にできるかどうかは、結局は名乗る役者次第。ある時からは「孝夫」を良い名前にすればいいと思ったという。襲名披露興行は東京と大阪で2ヶ月ずつ行ない、盛大なものとなった。「廓文章」など上方で親しまれてきた家の芸に加え、「助六曲輪初花桜」で、江戸っ子の代名詞とも言われる助六を演じた。仁左衛門いわく「『日本』の役者であってね。上方のものも、江戸のものも、何でもやりたい」。上方と江戸の垣根を越えた役者を目指した矜持が見える。

2022年に「義経千本桜」の「渡海屋・大物浦」の新中納言知盛を「一世一代」として演じ納めた。作品によっては次の上演まで3~4年、間があくこともある。次に演じる時に自分の体力がどうなっているかを考えると、お客様に自分なりに納得できるものをお見せできる間に切り上げたいという考えからだ。

千秋楽では幕が閉まってからも拍手が鳴りやまず、スタンディングオベーションになり、役者冥利に尽きたという。

「案内の方がお帰り頂くよう促しても、お客様は長い間、お立ちにならない。もう化粧を落としていましたが、これは出ないと申し訳ないと思い、カーテンコールに出ました。本当は知盛として海中に飛び込んだまま、消えてしまいたかったんですけど」。

ここ数年、「歌舞伎」と銘打っているはいるものの、伝統芸術という域をちょっと脱している新作が次々と上演されていることに危惧を感じているという。

「もちろん、私たちの第一の目的はお客様に感動を与えるということですから、その手法をどう選ぶかであって。そういうものもあっていいんだけれど、その割合がね。やはり本来の歌舞伎の姿で、お客様に『歌舞伎って面白いな』と思って頂けるようにすることが、今まで守ってきて下さった先人に対しての、我々の責任だと思います。その制約の中で、いかにして今のお客様を引き付けられるか。非常に難しいことです」。

最後に舞台に立つ後輩たちへ「大切にしてほしい」ことのメッセージ。

「古典を演じる時も、台本にある文字を型にはめられた言い回しで伝えるのではなく、そこに込められた、役への思いを伝えるように言うということです。そして初心に帰ること。『手に入る』という言葉がありますが、繰り返し演じて慣れっこになってしまうと、芸が止まってしまいます。自分は出来ていると思わず、上を目指す心を忘れないようにしてほしいですね」。