松浦四郎若2DAYS「乃木将軍信州墓参」「矢頭右衛門七誠忠録」

木馬亭の松浦四郎若2DAYSに行きました。四郎若師匠と二代目玉川福太郎師匠とは同い年で、お互いに「四郎若!」「福太郎!」と呼び捨てで呼び合う大親友だったそうだ。福太郎師匠は残念ながら2007年に62歳で事故死してしまったが、おかみさんであるみね子師匠、弟子である奈々福先生、太福先生がゲスト出演して、こうした会が催されたことは意義深い。

初日 「山内一豊の妻」天中軒すみれ・広沢美舟/「乃木将軍信州墓参」松浦四郎若・広沢美舟/「国定忠治 山形屋乗り込み」玉川太福・玉川みね子/中入り/「太閤記 秀吉の浜松報恩旅行」松浦四郎若・玉川みね子

二日目 「太閤記 織田家仕官」天中軒すみれ・広沢美舟/「赤穂城明け渡し 矢頭右衛門七誠忠録」松浦四郎若・広沢美舟/「天保水滸伝 鹿島の棒祭り」玉川奈々福・広沢美舟/中入り/「勧進帳」松浦四郎若・伊丹秀敏

「乃木将軍の信州墓参」。乃木希典の先祖が佐々木高綱だという噂が広がり、信州松本の墓を訪れて花や線香を手向ける人が絶え間ない。その乃木本人が墓参すると近所の茶店の老婆が愚痴をこぼした…。

息子の鹿造は高崎連隊に入隊し、3年で除隊して、妻と子供3人それに母である自分の6人で幸せに暮らしていたのに、日露戦争に召集され旅順で正直者の息子は乃木将軍の指示通り最前線へ進み、ロシアの銃弾が当たって戦死してしまった。心労から嫁は病死、3人の孫を婆さんが頑張って育てているという。

孫は「父ちゃんはなぜ死んだの?」と泣くが、村長が「国のために立派に死んだ」と言い聞かせるが、婆さんに言わせれば「金鵄勲章を貰っても倅は帰ってこない」。両親の位牌を見せて、孫3人と声を揃えて泣く婆さんの嘆きは尤もだ。

学校の先生に「乃木大将は立派な人だ。楠木正成のような人だ」と教わってきた孫に、「乃木大将は嫌いか?」と問うと「僕、大好きだよ」と答えるという。そして、先生が半紙に書いて渡した「一人息子で泣いてはすまぬ。二人亡くせし親もある」を読んで、思わず涙した乃木希典は「僅かですが学用品でも買って与えてください」と寸志を婆さんに渡す。

「お名前だけでも…」と言うと、「死ねと命令した第三司令官の乃木というのは、この私のことです…人様の大事な息子を何千何万も殺した…私は自分の身体を陛下に捧げたのです」と言って、乃木は身を震わせてハラハラと涙を流す。婆さんは「田舎者の頑固をお許しください。鹿造も草葉の陰でさぞ喜んでおりましょう」。乃木は「あなたの息子さんの魂は九段靖国に祀ってある。春になって花が咲くころ訪ねてください」と自分の番地の書かれた名刺を渡した…。戦争という愚挙を二度と起こしてはいけないが、乃木の人間的側面を描いた美談がこうして令和の御世にも綿々と伝わっていることに歴史的意味を感じた。

「秀吉の浜松報恩旅行」。小田原征伐を終えた太閤秀吉が途中、かつて仕えていた浜松に立ち寄る。そのときの思い出に浸っていると、当時藤吉郎だった自分に奉公していた娘きくに会いたくなる。きくは現在は横須賀村の漁師、作兵衛の嫁になっているという。使者の村越三十郎が庄屋に話しを付け、きくも承諾するが、作兵衛に「初婚」だと偽って結婚したことを詫びて登城するというのが何とも奥ゆかしい。30年ぶりに関白に出世した藤吉郎との再会を喜ぶきくの「私は日本一の幸せ者です」という台詞が素敵だ。

次に秀吉は出生の地である尾張中村を訪れる。弥助の倅、日吉丸として生まれたとき、自分を取り上げてくれた産婆のねねが存命と聞いて会いたくなる。ねねは3年前に失明したが、90歳で達者であった。「命の恩人」と感謝する秀吉は「あのときの恩を百万倍にして返す」と言うが、ねねは「猿にそんなことができるのか」と口さがないところなど、相手がたとえ太閤だろうが、関白だろうが、物怖じしないのが良い。きくにしても、ねねにしても、秀吉は身分の隔てなく感謝の言葉を贈り、昔を懐かしむところに「人間秀吉」を見ることができて、愉しい。

「矢頭右衛門七誠忠録」。浅野内匠頭刃傷に及び切腹、赤穂城は明け渡しとなったときの城代家老の大石内蔵助の判断力に畏れ入る。資産13万両を的確に配分し、「金さえ貰えば…」と赤穂を去る武士も多くいたが、55人が城の広間に残り、「いざ、殉死か」という空気に包まれた。

末座に控えていた足軽の矢頭長助の息子、右衛門七は父親が長の患いゆえに自分が殉死に加わろうとしていた。だが、十六歳は若すぎると言って大石はこれを拒む。だが、大石の長男・主税は十五歳。右衛門七は「足軽の家に生まれた情けなさ」と嘆くが、そうではないと大石は言う。大石には「吉千代、大三郎と次男、三男がいる」と言い訳をするが、右衛門七は聞く耳を持たない。

父の長助が床に右衛門七を呼んで、「父は行けぬから代わりに討死にしてきてくれ。そうでなければ、父は死んでも死にきれぬ」と言った。そして、母が一晩寝ずに死装束を縫い上げたという。「回状には『身分の上下は問わず』と書いてあったではないか」と訴える。

主税と右衛門七が腹をお互いに差し違えると言い出す。許してやりたい大石だったが、ここで見事な見識を見せる。「切腹は勇み足だ。吉良邸に討ち入り、上野介の首を見事に討ったその後で、我々が切腹しても遅くはないではないか」と。広間に列席した武士は同意し、連判状に名を連ねた。足軽の倅が許されるならばと、寺坂吉右衛門も名乗りをあげた。こうして、仇討本懐の計画が進められることになったのだ…。大石内蔵助の智者ぶりが光る高座だった。

「勧進帳」。安宅関を通過するため、入念な取り調べを命じられている富樫に対して、弁慶は見事に勧進帳を読み上げ、山伏問答に淀みなく答える。それでも、義経の存在に疑いをかけた富樫に対し、弁慶は金剛杖で義経を激しく打ち打擲し、事なきを得る。

だが、富樫は見抜いていた。突き出せば手柄になる。しかしながら必死の金剛杖を見て、弁慶の忠義に心が揺れた。武士の情け、慈悲である。

そして、義経も弁慶に対し、「命の親」と感謝する。鞍馬山から出でて、京の五条の橋の上でまみえて、20年前に結んだ縁が懐かしく思える。何が痛かろう、辛かろう、と嬉し泣き。弁慶と義経の主従関係の美しさに酔った。