立川流前座勉強会 立川笑王丸「品川心中」、そして月刊少年ワサビ 柳家わさび「船徳」
「立川流前座勉強会~笑王丸とのの一(と吉笑)」に行きました。立川笑王丸さんが「山号寺号」と「品川心中」、立川のの一さんが「廿四孝」と「時そば」、立川吉笑さんは「一人相撲」だった。
笑王丸さんの「品川心中」。金造が品川の海から這い出して、博奕をしている親分の家に辿り着くまでだったが、前座とは思えない噺運びの上手さが光る。欲を言えば、板頭なのに金がないために移り替えが出来ないお染の見栄っ張りなところとか、そのお染の心中相手に選ばれて色仕掛けによって「一緒に死んでやる」と約束してしまう金造の愚かさとかをもっとデフォルメして描けば、もっと面白く聴けるのにとは思うが、それはこれから先のこと。前座のうちにこれだけの基礎を作っておけば、二つ目になって頭角を現すに違いない。
のの一さんの「廿四孝」。「孝行の威徳によって天の感ずるところ」に対し、八五郎が「天、すげえ!」と感心するのが可笑しかった。王祥(鯉)、孟宗(筍)のエピソードの後に呉猛のエピソードが出てきて、「冬に婆さんが何か食べたがるんじゃないの?」と突っ込むところも愉しい。欲を言えば、郭巨のエピソードも加えてほしかった。個人的には廿四孝の中でも郭巨の自分の子どもを埋めに行って金の釜が出てくるというエピソードが一番ナンセンスで好きだ。
夜は「月刊少年ワサビ~柳家わさび勉強会」に行きました。「茗荷宿」「崇拝MHz」「船徳」の三席。
「崇拝MHz」は「駆け込み寺」「深夜ラジオ」「クルーズ」の三題噺。駆け込み寺という言葉が現代ではサポートセンターという意味で使われているところに突破口を開いたのは流石わさび師匠である。
同級生が相談所を立ち上げ、沢山の人たちが訪れて人気を得て成功していることに嫉妬した寺の住職の二代目は…という噺だ。同級生は世間の人々の抱える問題を次々と解決してあげ、「チャチャットさん」という愛称で崇拝され、人気者になり、信用を得ている。それに比べて俺は比叡山で厳しい修業をして頑張ったのに、誰からも崇拝どころか信用もされていない!と苦悩する。
このカリスマ性は深夜ラジオのパーソナリティがリスナーに崇拝されているのと同じではないかと考えた。仏像の時代は終わった、本尊をラジオパーソナリティにすれば信者が増えるのではないか。仏の耳にエアモニをはめ、手にハガキを持たせて、前にはマイクを置き、アクリル板でラジオブース感を出す。リスナーは檀家という発想が面白い。だが、あることをきっかけに二代目住職のその考えは間違いだったことに気づく…。
現代的要素をふんだんに取り入れながら、最終的には「人気、ましてや崇拝というのは安直に得られるものではない」という永遠のテーマを噺にじませるところがすごいと思った。
「船徳」はネタおろし。非力で情けない船頭の徳さんが、わさび師匠のキャラクターにうまくマッチして面白かった。女将さんに「親方に止められているでしょう」というのを聞かず、「行かせてください」と大桟橋までの船を引き受けた徳さん。途中、竹屋のおじさんに「ひとりかーい。大丈夫かーい」と叫ばれて、客の方が何かあったの?と訊くと「二日前にちょっとした間違いをしましてね…赤ん坊をおぶったおかみさんを川に落っことしちゃったんです」。全然、「ちょっとした」じゃない!
船が石垣にへばりついちゃうと、こうもりを持った客に対し、「それで石垣を突いてください!竿は流しちゃったから!」。汗が目に入って前が見えなくなって、客が「流されているよ!」と指摘しても、泣き叫んで「諦めてください」。なるほど、出発したときに女将さんから「危ないと思ったら無理をするんじゃないよ」と言われただけのことはある。そうそう、船頭になると親方に宣言したときも、「つらいなと思ったら、すぐやめるんだよ」と言われていた。
商売というのは憧れだけでなるものじゃない、向き不向きがあるということを、この徳さんは教えてくれる。船頭たちが「若旦那だったら、芝居に出てくるような船頭になれますよ」とおだてるのを鵜呑みにするもんじゃないよね。