シス・カンパニー「夫婦パラダイス」、そして神保町かるた亭 最終回すぺしゃる
シス・カンパニー公演 日本文学シアターvol.7「夫婦パラダイス~街の灯はそこに~」を観ました。
作:北村想、演出:寺十吾のタッグで送る「日本文学シアター」の第7弾だ。これまで太宰治「グッドバイ」、夏目漱石「草枕」、長谷川伸「遊侠沓掛時次郎」、能「黒塚」より「黒塚家の娘」、江戸川乱歩「お蘭、登場」、坂口安吾「風博士」と北村想さんが文学作品や戯曲、作家をモチーフに独創的なオリジナル作品を書き下ろしてきた人気シリーズである。
今回は織田作之助の出世作であり代表作である「夫婦善哉」がモチーフである。森繫久彌と淡島千景の名コンビが評判となった1955年の映画のほか、ドラマ、演劇、文楽、オペラまで繰り返し映像・舞台化されている。北村想さんは今回、これに川島雄三監督の映画「洲崎パラダイス 赤信号」の世界を取り込んだ。さらに葛の葉の通称で知られる浄瑠璃「蘆屋道満大内鑑」の要素もふんだんに盛り込み、安倍晴明が編纂したとされる陰陽師の秘伝書「金烏玉兎集」を絡めた。また、2022年のアカデミー賞7部門受賞のアメリカ映画「エブエブ」や関西での河童の別称で、落語「代書屋」にも出てくる河太郎(ガタロ)なども加味して、演出面では歌舞伎の「だんまり」も取り入れた、何とも不思議な世界を構築しているのが面白い。そう、それはファンタジーであった。
お蝶を演じた瀧内公美さんはプログラムの中でこう述べている。
ファンタジックな世界の中にこの世のありようを示すような教養ある言葉が詰まっています。比喩表現も独特で色っぽさがあって好きです。今回の“引っかかった黒い藻は女のしなだれ”というような表現も素敵です。心に響いたのは、「この世というのはなんやワカランところや」という蝶子の台詞。わかりやすさが求められる現代において、わからなくて当たり前と肯定してくれているのが優しく美しく、人生の救いになると思うんです。以上、抜粋。
また、信子を演じた高田聖子さんはこう述べている。
柳吉さん(尾上松也演じる主人公)がいろんな引用をしながら楽しそうに喋るじゃないですか。それを見ていると子供の頃、自分の父親やその世代の人たちが、歴史上の人物や当時のスキャンダルとか、歌舞伎十八番の話を入れ込みながら楽しそうに話しているのを「面白そうなこと言ってんな~」とうらやましく見ていたことを思い出すんですよね。理由はわからないけど素敵で、涙がポロッとこぼれそうになったり。それが北村想さんの世界なのかな、という気がしています。以上、抜粋。
そうなのだ。これは夢なのか、現実なのか。そのホンワカした空気感が面白いし、何かノスタルジーを感じてしまう魅力が北村想作品にはあるのだ。
演出の寺十吾さんもプログラムの中で「『呪(シュ)』で暗示にかける術師」と題して、こう書いている。
想さんが今回のモチーフにしている「夫婦善哉」も映画「洲崎パラダイス 赤信号」も、「大好き」と「大嫌い」という相反するものが同居しながら、付かず離れず一緒にいることを選ぶ男女の機微を描いています。相反するものが同居するという意味では、今の情報化社会も同じです。何が本当で何が嘘かわからない世の中で、氾濫する情報の真偽を見極めるのは容易じゃない。これからは情報の「使い方」が問われるのではないか、と想さんは話していましたが、あまり頑なに考えず、かと言って諦めもせず、物事を適当にいなして生きていけると楽しくなる気がします。主人公の柳吉はまさにそういう魅力の発し方をする人物で、観た方にもいい意味での「適当さ」を考えてもらえたらと思いますね。以上、抜粋。
北村想の“呪”=魅力は、この物事を「適当にいなしていく」ことで伝わってくる。それは魔術のようでもある。そこが面白いのだと思った。
夜は「神保町かるた亭」最終回すぺしゃるに行きました。2016年に春風亭昇也師匠(当時は二ツ目)の勉強会的意味合いでスタートした奥野かるた店二階での落語会も第71回の今回をもって最終回となった。僕が初めてかるた亭に行ったのは2020年3月、ゲストが三遊亭兼太郎さんのとき。まだコロナ禍で休止になる前だった。手作りの温かみがあって好きな会だった。8年余り、お疲れ様でした。
「寛永宮本武蔵伝 道場破り」神田松樹/「天狗裁き」春風亭昇也/ものまね 江戸家猫八/「天野屋利兵衛 雪江茶入れ」神田松鯉
松樹さんは松鯉先生の末っ子弟子。入門前から講談教室に通っていただけあって、前座とは思えない堂々たる高座。まだ10代というから、末恐ろしい逸材だ。昇也師匠は通常運転。隣家の男が「俺も女房に言えない夢を見ることがあるよ」と言って、吉原で一番の花魁と対面したら、その顔が女房だった!という夢を暴露して、「だから、お前も喋れよ!」と迫るところが面白かった。
猫八先生は和装の高座だった。落語の「つる」の概略を話した後、「でも鶴は枝には止まらないんです」。ただ、アフリカに生息し、ウガンダの国鳥にもなっているカンムリヅルだけは枝に止まることができることが判った。公用語はスワヒリ語だが、アンコレ族のニャンコレ語でツルのことを「エニャワーワー」と呼ぶのだそうだ。ワーワーと鳴いて、エニャ(枝)に止まる(笑)。
松鯉先生の「雪江茶入れ」。宝物蔵の風入れで浅野家自慢の“最高の重宝”を殿様から直接説明を受けて拝観した天野屋利兵衛。「その重宝が紛失した。覚えはないか」と城代家老の大石内蔵助に訊ねられた利兵衛に覚えは勿論ない。だが、「仮に出てこないときには当番の貝賀弥左衛門と磯貝十郎左衛門が切腹して詫びをしなければならない」と聞き及んだとき、利兵衛は「出来心で盗みました」と答える。しかも、手が滑って袂から石畳に落として粉々になったゆえ、堀に投げ捨てたと虚偽を言う。縛り首、討ち首は覚悟の上だ。
だが、雪江茶入れは殿の手元にあった。なぜ、嘘をついたのか?浅野様に信用されて出入りを許されている商人が盗みを疑われたら、生きている甲斐がない。ならば、濡れ衣をかぶってあの世に逝くも本望だと思ったという。この利兵衛の言葉に浅野内匠頭は痛く感銘を受けるのは当然だろう。「余はこのことを生涯忘却せぬぞ」。両者、玉の露を目に浮かべ、主従に劣らぬ絆を確かめ合った。この信頼関係があったればこそ、後の仇討本懐が遂げられたわけである。美談である。