「東京人」特集 どっぷり、落語! 落語協会創立100年

「東京人」3月号、「特集 どっぷり、落語! 落語協会創立100年」を読みました。

「了見だけはアウトローで。」と題した五街道雲助師匠へのインタビュー。長唄のような邦楽には確固とした型があるから「それを忠実に伝える」ことが大切かもしれないが、落語の芸はこういう残し方じゃダメだという言葉が印象に残った。百人いれば、百人の芸がある。落語は型に嵌めてはいけない芸。人間国宝として重みのある言葉だと思った。

その上で、危惧も。落語そのものが大変やりにくい時代になったと。「女を買う」という言葉一つを発しただけで、引いてしまうお客様があったりする。突き詰めると、廓噺ができなくなる。明らかに時代は変わっていて、それに合わせていたら、落語なんかなくなっちゃうかもしれないとおっしゃっている。これまた重い言葉である。

「楽屋裏の師匠たち。圓生、小さん、談志、志ん朝、小三治…」と題した林家正蔵師匠と柳家喬太郎師匠と林家彦いち師匠の座談会。胸がキュンとなるのは志ん朝師匠の思い出話だ。彦いち師匠いわく、志ん朝師匠は前座を名前で呼んでくれたそう。「そっちは」とか「アンちゃんは」とかではなく、さん坊(現・喬太郎)とか、きく兵衛(現・彦いち)とか、名前で呼んでくれて嬉しかったという。

また、二ツ目勉強会で彦いちさんが演った「歯磨き討ち」について、翌月に出た喬太郎さんに「俺だったらこうやるよ」って、僕の前でワンシーン演じて、「こうやれって言っといて」と言ったそうだ。喬太郎師匠、「俺、志ん朝師匠の『歯磨き討ち』聴いちゃった!」と感激したそうだ。誰もが思う“憧れの師匠”だったことがよく伝わるエピソードだ。

「これからの百年、落語はどうなるの?!」と題した、柳家三三師匠と古今亭菊之丞師匠と春風亭一之輔師匠の座談会。百年後に寄席が残っているか?という部分の発言に興味を持った。この三人は寄席を大事にしている噺家だからこそ、である。菊之丞師匠は「コロナ禍になって弱い芸能だとわかった」、一之輔師匠も「客層が明らかに変わった。年配の方は出控えたり、来なくなっちゃった方がいっぱいいる」。

「寄席の上席、中席、下席のそれぞれ一日を無料で配信するのはどうか」という発言が飛び出すも、三三師匠は「落語協会は寄席に出るための親睦団体で、僕たち芸人が盛り上がっても寄席がうんと言わないと新しいことができない」という点を指摘していた。寄席のお陰で色々な師匠がいる環境で育ってきた有難さを感じている三人だからこそ、印象的な言葉だった。

「落語協会の百年を支えた噺家たち」という長井好弘さんの文章は読み応えがあった。是非、購入して読んでいただきたいが、一つ大変興味深い記録があったので紹介したい。昭和22年1月27日に古今亭志ん生は満州から命からがら帰国した。そして、新宿末廣亭の二月上席から高座復帰している。橘流寄席文字のベテランで、寄席資料収集家でもある橘右樂さんが入手した、上野鈴本演芸場の昭和22年二月中席のネタ帳。そこに夜の部に出演した志ん生の演目が記されている。

①代り目②義眼③氏子中④錦の袈裟⑤幇間腹⑥不明⑦火焔太鼓⑧万病円⑨やじろう⑩千早ふる。6日間の慣らし運転の末、七日目で十八番ネタを演じ、伝家の宝刀が錆びついていないか、生身の客の前でチェックしたに違いないと長井さんは推測している。そして、3月31日の鈴本演芸場余一会で昼夜で独演会を開き、昼は「今戸の狐」「鰍沢」「品川心中」、夜は「文違い」「火焔太鼓」「らくだ」。戦前は知る人ぞ知る実力派だった志ん生が満州からの帰国を機に、落語界の大看板に駆け上がったことを示す貴重な記録だ。

「落語をつなぎ、引き立てる、芸人たちの系譜。」と題した、漫才コンビおしどりのマコさんの文章もとても良い。落語協会誕生百年の刊行物で色物のページを作るために、色々な諸先輩に取材した内容をコンパクトにまとめてある。先日亡くなった三代目林家正楽師匠が「僕の話より、重宝帳をあるだけ調べて並べたらどうだろう。自分でも思い出せない古い色物の師匠方の名前を見てみたい」とおっしゃって頂き、この取材に協力してくれたそうだ。

詳細は購入して読んでいただきたい。奇術のダーク広和先生がダーク大和先生に入門した経緯や、その後の弟子修業などのお話は大変興味深いし、五代目の江戸家猫八師匠の曽祖父にあたる初代からの歴史と“動物のものまね”に特化することの意味なども必読である。柳家小菊師匠が語る師匠の柳家紫朝の苦労話や教えなども初めて知ることばかりで夢中で読んだ。

「噺家の呼吸に合わせて弾く。」と題した、東京かわら版編集長の佐藤友美さんがお囃子の井上りちさんに取材した文章も素敵だ。現在、落語協会に所属するお囃子さんは16名で、東京藝術大学邦楽科出身の太田そのさん以外は全員、国立劇場の寄席囃子研修出身だが、その研修制度がスタートしたのが1980年。その前に、落語協会がお囃子の高齢化と後継者不足が深刻になり、「おはやし教室」なるものが開催されたという史実は知らなかった。

紙切りのお題が出たときに、それに合わせたお囃子を即興で演奏するのが寄席の一つの楽しみになっているが、お囃子さんは常に勉強をしているという。志村けんさんが亡くなったときには「ヒゲダンス」や「東村山音頭」の音を確認し、メモ程度に譜面を起こしたり、「鬼滅の刃」がどうやら流行っているようだ、YOASOBIの「アイドル」とか出そうだな、とか色々と準備しているそう。すごい!

以上、紹介したのはほんの一部である。「東京人」3月号、「特集 どっぷり、落語! 落語協会創立100年」は演芸ファンにとっては大変読み応えのある内容になっている。お勧めの一冊です!