演劇「シラの恋文」、そして真一文字の会 春風亭一之輔「按摩の炬燵」
シス・カンパニー公演「シラの恋文」を観ました。
時は近未来の2035年。コロナ禍の混乱を経て結核菌蔓延のため創設された療養施設(サナトリウム)が舞台だ。余命短い療養者は作家志望の若者、コロナで子を失った女性、輪廻の恋理論を唱える落語家など様々。剣術を推奨され、畑仕事をして暮らす。新入りの志羅(草彅剛)は、幼少期にテレビ越しに一目惚れした少女剣士と瓜二つの小夜(大原櫻子)と恋に堕ちる。彼女は死んだはずだったが、時を超えて輪廻転生したのだった…。
サナトリウムが舞台なのに、全体的に重苦しい空気がない。生と死が隣り合わせの人々みんなが生きる希望を持っていることに胸を打たれる。輪廻の恋を軸に、コロナや結核、温暖化、そして戦争と地球が抱えている問題が何筋も描かれている。現在の世界の延長線上の近未来を預言しているかのようでもある。だけれど、登場人物みんなが前向きなのがとても良かった。
演出を担当した寺十吾さんがプログラムにこう書いている。
志羅が選択した道はごくシンプルなものでした。「どう死ぬべきか」は「どう生きるべきか」に通じます。生きていると難しいことはたくさんあるけれど、自分の中にシンプルで確かなものがあれば、きっと生きていけるんじゃないか。不穏なことばかりのこの世の中で、生きていく術と手がかりのようなものを感じてもらえたら幸いです。以上、抜粋。
作者の北村想さんはこの作品を書くにあたって、“ロマンチック”を意識したという。絶望的なことばかりが突き付けられる現代社会の毎日において、希望を持って生きることの大切さを教えてもらったような気がした。
夜は「真一文字の会~春風亭一之輔勉強会」に行きました。「がまの油」「二番煎じ」「按摩の炬燵」の三席。開口一番は春風亭貫いちさんで「権助提灯」だった。
「二番煎じ」。一の組の月番さん、黒川先生、伊勢屋さん、辰っつぁん、宗助さんの5人のわいわいがやがやが実に愉しかった。火の廻りのときの、辰っつぁんの吉原仕込みの良い声、北風に声が震えるところまでやってくれたのが嬉しい。
初めて猪肉を食べたという黒川先生。一句ひねりたいと駄句を並べるのも面白い。番小屋で猪を食べてる火の廻り。木枯らしや猪鍋の音ゴトゴトと。そして秀逸だったのは、猪鍋を食べて可笑しくもありシシシシシ!
伊勢屋さんが「私は葱だけ」と言って、「どうして辛い葱が煮るとこうも甘くなるのか」とか、「堅いのは苦手なんです…アッ!前歯で噛んだら熱い汁が喉を直撃した!」とか、話しながら葱と葱の間に猪肉を挟んでいるのが愉快だ。
見廻りの役人が入って来て、鍋の上に座った宗助さん。役人が「シッ!という声が聞こえたような」「土瓶があったような」「鍋が見えたような」と言う度に、月番さんが「宗助さんが…」と言われてしまう損な役回りがまた盛り上がる。役人も心得ていて、「口直しが良いと煎じ薬がすすむのう」の台詞は粋だ。
「按摩の炬燵」。番頭さんと按摩の米市さんが幼馴染で仲が良く、番頭さんを信頼しているからこそ、米市さんは「炬燵になる」ことを二つ返事で快諾してくれるのだ。その二人の絆が素敵だ。
松どんの燗のつけ方を褒め、「酒好きじゃないと、こういう人肌にはできない」と行った後、「この番頭さんもね、お前さんの年頃でちょいちょい店を抜け出して(お酒を)やっていたんだよ」と言うのも良いし、「徳ちゃん、米ちゃんの仲だった。小さいときはよく庇ってくれた。それが今ではこんな立派な番頭さんになって。俺たちの出世頭だ」と言うのも番頭さんと米市さんの間柄をよく現わしている。
番頭さんが炬燵を入れると、皆が真似をして、店に火事が起きるような粗相があるといけないと未だに炬燵を入れていないことも米市さんは讃える。「番頭になっても奉公人だと思っている。人の上に立つ人は偉いね。名番頭!」。心の底から言っているのが判って、微笑ましい。
番頭さんに「暖簾分けを考えたらどうだ。別家して、かみさんを持つだけでもいい」と言っても、番頭さんは「番頭の方が気楽。独り身の方が気楽」と答えたそうだ。米市さんは家に帰ったら「お帰りなさい」と言ってくれる女房が欲しいと言って、按摩仲間の紹介でお見合いをしたときのエピソードを語るのも、聴き手の心を温かくしてくれる。
目の不自由な人に炬燵の形になれと強要している噺では決してない。皆が共同体の中で助け合いながら暮らしている。そんな素敵な噺だと僕は思う。