暮れに鈴本で聴く文七元結 柳家喬太郎、そして実験落語neo 柳家喬太郎「柚子」

上野鈴本演芸場十二月下席初日昼の部に行きました。今席は「暮れに鈴本で聴く文七元結」と題した特別興行が26日まで行われる。①喬太郎②雲助③菊之丞④左龍⑤志ん輔⑥三三、各師匠がトリで「文七元結」を演じる。きょうは柳家喬太郎師匠であった。

「子ほめ」柳家小きち/「金明竹」柳亭市童/ジャグリング ストレート松浦/「無精床」三遊亭歌武蔵/「時そば」柳家さん喬/漫才 風藤松原/「雪とん」入船亭扇辰/「堀の内」春風亭一之輔/中入り/粋曲 柳家小菊/「ごくごく」林家彦いち/紙切り 林家正楽/「文七元結」柳家喬太郎

喬太郎師匠の「文七元結」、滅多に演じない“一年後返済バージョン”だった。長兵衛が佐野槌の女将から借りた50両で義理の悪い借金を返し、酒もぷっつりとやめて、仕事に精を出して、一年後までに50両をやっとの思いで拵える。そして、娘のお久を晴れがましい思いで迎えに行くのだが、その途中で吾妻橋に身投げしようとする文七を見つけ…、というストーリー展開だ。

まず、きりりとした佐野槌の女将が良い。長兵衛を呼び出し、「暮れのせわしない最中に泣かされちゃったよ」。父親が仕事をしないで博奕に狂っている。借金で首が回らないのに、酒ばかり飲んでいる。おっかさんをぶったり、蹴ったり。血が繋がっていないから、なおさら切ない。私で宜しければ買ってください。そして、お小言とともに渡してください。そうお久は言ったという。「この娘にそんなことを言わせて、何が面白いんだ。うちの亭主が生きていれば、腕の一本折られてもおかしくないよ!」。

50両を貸して、「いつ返せるか」と問うと、長兵衛が「年が明けて正月には」と出来もしないことを軽々しく言うと、「冗談を言うと承知しないよ!」と声を荒げる女将がすごかった。「こんないい子に会ったのは久しぶり」と言って、返済期限を来年の大晦日に設定し、「それまでに返せば、この子を店には出さない」と優しさを見せるが、「一文でも足りなかったり、一日でも遅れたりしたら、私は鬼になるよ。店に出す。悪い病を引き受けるかもしれない。それを恨んでもらっては困るよ!」。

50両はお久から長兵衛に渡す。「おっかさんに宜しく伝えてね。ぶったり、蹴ったりしないでね。生意気なことして、ごめんなさい」。長兵衛は「可愛がってもらえよ。自慢の娘だ。きっと可愛がって貰えると思うが。必ず迎えに来るから。俺を誰だと思っている。達磨横丁の左官の長兵衛だ。余計なこと、しやがって。お久はまだ子どもだな、泣いていやがらあ」。泣いているのは長兵衛の方だ。

長兵衛が女将に「お久をよろしくお願いします」と言うと、「私は佐野槌の女将だよ。任せなさい」。印象的な一言だ。

長兵衛はこの日を境に人が変わる。借金を返して、仕事に精を出す。酒も博奕もすっかりやめた。歯を食いしばって、働いて、働いて、働いた。そして翌年の12月30日。啖呵を切っただけのことはある。一日でも早く娘を迎えに行きたいと、女房と自分の着物も質に入れて、なんとかかんとか50両を拵えた。小判ではなく、細かいものばかりで50両が入った財布を懐に、女モノの着物を着た長兵衛は「きょうは晴れがましいぜ。良い正月を迎えられる」と言いながら、佐野槌へ向かう。

だが、吾妻橋で文七が身投げしようとしているところを見つける。50両掏られた、死んでお詫びをすると言う文七に「何とかなる。生きていればいいこともある。主人はモノの判らない唐変木か?少しずつ給金から返せばいい。死ぬよりましだろう?それでも50両なかったら死ぬのか?」と長兵衛は熱く説得するが、文七は頑なだ。挙句、「死ね!そんなグズグズしている人間、嫌いだ。死ね!」。

死ぬ目になっている文七を見て、長兵衛は「俺は何をしているんだ?」と自問する。そして、「50両あれば死なずにすむんだな?小判じゃなくていいか?細かいものばかりで50両ある。お久、お父っつぁんは頑張ったんだぜ。やめたんだ、博奕。水戸様が細かいものばかりで50両を渡すのもおかしいが、何とかしろ!持っていけ!」。

盗んだんじゃないぞ。博奕で借金を作って、去年の暮れの28日に娘が佐野槌に身を売った50両、そこの女将さんが娘を預かって、明日までに耳を揃えて返せば店に出さないと約束してくれたんだ。死ぬ気になって働いたよ。着物も質に入れて、何とか50両拵えた。明後日から娘は女郎になる。でも、死ぬわけじゃない。お前は今、死ぬというから…持っていけ!やりたかねえよ!こんな情けないことはない。でも、もし娘がここにいたら、この人にあげてと言うに違いないんだ!

投げつけられた財布を持った文七は「親方!申し訳ございません!」と、ただただ拝むしかなかった。事情を聞いた近江屋卯兵衛の台詞が良い。「お前も商人として生きていくなら、この財布の重みを覚えておきなさい」。そして、「こんな粋な真似ができるのは、佐野槌しかない。久しく行っていないね」と番頭と話すところも、佐野槌の女将の気っ風の良さが顕われている。

翌日の近江屋来訪に、長兵衛が「忘れてきた?今から死ね!…良かったなあ。犬死だぞ」と温かく迎えるのも良い。そしてお久身請けを知り、「人のことを散々持ち上げておいて、そちらの方が江戸っ子だ」と言うのも良い。長兵衛、佐野槌の女将、近江屋卯兵衛、皆江戸っ子なのだなあ。50両という金の重みについて、とても具体的に考えさせられる、素晴らしい「文七元結」だった。

夜は渋谷に移動して、「実験落語neo~シブヤ炎上FOREVER」に行きました。今回が三遊亭円丈師匠の追善興行であり、ファイナル公演だ。2016年にスタートした「実験落語neo」の過去の映像を編集した「円丈師匠に捧げる実験落語neoクリニクル」がエンディングに流れたのが、とても感慨深かった。

「喪服キャバクラ」三遊亭わん丈/「つっこみ根問」「露出さん」春風亭百栄/「柚子」柳家喬太郎/中入り/「タイムパッカー」三遊亭ふう丈/「私と僕」林家彦いち

現在の落語界における“新作落語の地位”を飛躍的に向上させた最大の功労者が三遊亭円丈師匠であることは誰もが認めることだと思う。これまでの落語という概念をぶっ壊し「何でも自由に創作していいんだよ」という空気を作った功績は大きい。50年前に、今ほど新作落語が溢れている時代を予測した人がいただろうか。円丈師匠が先頭で旗を振り、仲間を募り、そして円丈チルドレンという世代が活躍し、そこにできた土壌の上で若手落語家たちがイキイキと活動している。

百栄師匠は古典一本槍で入門をしてきた当時、静岡大学の学園祭で円丈師匠が「かわいそうなウンコに香典を」というタイトルの落語を披露し、衝撃を受けたという。そして、後に円丈師匠に誘われる形で新作落語の沼にはまっていったという。僕も渋谷のジャンジャンで開催されていた「放送禁止落語会」を聴きに行って、古典落語の魅力と並行する形で新作落語の自由さの虜になった。その後、SWAという創作話芸のユニットを追い掛けるきっかけにもなった。

落語は今、古典、新作に限らず、大きな転換点を迎えているような気がする。コンプライアンスという荒波や、ハラスメントという逆風にさらされて、ともするとその魅力を失うのではないかという危惧すら感じられるときがある。だが、そういうときだからこそ、知恵と工夫を働かせて乗り切らなければいけないと思う。時代に合った落語を創っていく、アレンジしていく。それは円丈師匠が闘ってきた精神と相通ずるものがあるような気がしてならない。

きょう、喬太郎師匠が演じた「柚子」は、父子家庭に育ったケンイチ君が、お父さんがホモだ、カマだと同級生からからかわれる。一緒にお風呂に入ろうとケンイチ君が何度言っても拒絶していたお父さんが、冬至の柚子湯の湯船の中で「実はお父さんはお母さんなの」と告白されて…という落語だ。

LGBTQが叫ばれる世の中で、その意識を声高に訴えるのではなく、さりげなく盛り込んでいる作風が、いかにも喬太郎師匠らしい。「人が人を好きになることに怯えてはいけない」とケンイチの母は言った。その台詞がすごい沁みて、人が人を好きになることの尊さを改めて考えさせられた。秀作である。

もしかすると、テレビやラジオではこの新作落語の表面的なところを捉えて、オンエアを自粛するかもしれない。だけれども、この噺が本当に伝えたいことを考えると、寧ろ「こういう噺こそ、オンエアするべきなのではないか」と思う。

実験落語とはだいぶ離れたことを言っているかもしれないが、もしかするとこういう「柚子」のような新作こそが本当に“実験落語”かもしれないと思った。