京山幸枝若独演会 「四天王寺の眠り猫」
京山幸枝若独演会に行きました。甚五郎モノを得意とする幸枝若師匠が一番弟子の幸太さんとリレーで「四天王寺の眠り猫」を披露した。
「四天王寺の眠り猫」京山幸太~京山幸枝若/中入り/「恋の道成寺 安珍清姫」京山幸枝若(曲師:一風亭初月)
「四天王寺の眠り猫」(前半)京山幸太
大坂日本橋三丁目の棟梁、浪花吉兵衛の許を訪ねた甚五郎。3年前に上野寛永寺の普請のとき、江戸の責任者が甚五郎で、上方の責任者が吉兵衛で、大層気が合って、「歳の差は親子ほど違うが、大坂に来たときは訪ねてくれ」と言われて別れた仲だった。それで、訪ねたのだが、吉兵衛は前年に亡くなり、今は息子が二代目の吉兵衛を継いでいる。
甚五郎は自分が甚五郎だと知ると気を遣うだろうと、わざと「甚助」と名乗って訪ねた。二代目吉兵衛が「板削り、一日でどれだけできるか?」と尋ね、「一日2枚」と答えると、「うちの職人は100~200枚は削る」と嘲笑う。すると、甚助が「それは鉋屑を拵えているだけだ。わしの削った2枚をピタッとくっ付けて水に浸けても、板の間が濡れることはない」と腕の違いを誇るのがいい。
世話になることが決まり、“近づきの印”の酒を勧めると、甚助は「酒はあかん」。「受けるだけでいい」と吉兵衛が注ぐと、一気にグイと飲み干し、「もう一杯だけ」。それが繰り返され、「“ちょっと”はあかんのや。なんぼでも飲める」と酒豪ぶりを発揮し、三升飲んでしまう豪快さもいい。
寺社奉行は四天王寺の門の普請を吉兵衛に任せることにしていたが、岡山から松吉という腕利きが出てきたので、腕競べをして勝った方に任せることになったという情報を先代の一番弟子の熊五郎が聞きつけ、二代目吉兵衛のところにやってくる。二代目は“下手くそ”で、親の七光りで継いだようなものなのに、酒と博奕にうつつを抜かしているから、この勝負は負けてしまうことは必至。なので、熊五郎自らが「猫を彫らせてくれ」と進言する。期限は35日。
この話を聞いた甚助は先代吉兵衛が「救ってやってください」と冥途から引き合わせたのだ、「相手に不足はない、乗るか反るかの勝負。ここが命の捨て所」と意気込んだ。
「四天王寺の眠り猫」(後半)京山幸枝若
二代目吉兵衛に対し、甚助も「猫を刻ませてくれ」と進言した。熊五郎の彫った猫と自分の彫った猫の出来の良い方を寺社奉行に提出すればいいという考えだ。熊五郎は一心不乱に猫を彫っているが、一方の甚助は三畳の布団部屋に籠って、雨戸を閉めて、酒ばかり飲んでいる様子。一向に猫を彫っている気配が感じられない。
期限の35日が経った。熊五郎は「命を懸けて刻んだ猫」だと二代目に見せる。だが、それを見た甚助は「鼠も取らない間抜けな猫にしか見えない」と批評する。だが、甚助は自分が彫った猫は風呂敷に包んだまま見せない。寺社奉行にまず熊五郎の猫を出して、それで松吉に勝てば、それで良し、負けたら自分の猫を出せば良い、恩人に煮え湯を飲ませるようなことはしないと自信たっぷりだ。
いざ、寺社奉行へ。案の定、松吉が彫った猫に対し、熊五郎のそれは不細工にしか見えなかった。未熟を笑う松吉だが、吉兵衛は甚助の彫った猫を包みのまま差し出す。何が出るやら、気が気じゃない。すると、包みを取った彫り物は、どこが足か頭か、わからないずんべらぼう。「なんだ、甚助は松吉の回し者だったのか!」と吉兵衛がそれを投げようとしたら、そこへ甚助がスッと現れ…。
甚助いわく「わざと仕上げを見合わせたのだ」と言って、その場で腰からノミを取り出して、ゴリゴリ、コツコツと今の時間で40分ばかりで彫り上げた。その猫は両眼見開いて、ニャンと鳴き、駆け出したという…。噓か真か、わからないのが面白い左甚五郎伝説を愉しく聴いた。