真山隼人「相馬大作誠忠録」

真山隼人ツキイチ独演会に行きました。「強引に通し口演 仇討浪曲・相馬大作」と銘打っての第20回だ。本来なら9席あるが、ダレ場が多いのと、時間的制約もあるために、大胆に3席にまとめたという。

津軽藩に取られた桧山を取り戻そうと、南部藩の大目付の息子、“相馬大作”が苦心して、津軽の殿様を一人で三代までも討ち取るという、いわば「みちのく忠臣蔵」。だが、仇討そのものよりも周辺のエピソードに重きを置いた内容になっていて、それがまた面白かった。

大前提。江戸城改築にあたり、南部藩所有のヒノキが優良とあって、徳川家が打診するが、落語の「紀州」よろしく、「いえいえ、あの山は私どもの山ではありません」と謙遜してしまったが故に、桧山は隣の津軽藩の所有ということになってしまった。

南部藩の大目付、尾崎富右衛門の息子、秀之助は父親に無断で剣術修行のために江戸へ出立してしまう。だが、津軽藩への遺恨を晴らし、桧山を取り戻したいと考えていて、相馬大作と名乗り、津軽の殿様を討ち取るのだが…というストーリーだ。

「三次の生い立ち~初代討取」

秀之助が大木戸宿に立ち寄る。そこで貧乏旅籠の松田屋に泊まる。この宿は中風で寝込んでいる父親とその息子三次13歳しかいない。その上、二畳と三畳の二間しかなく、寝るのに布団もないという始末。しかし、秀之助は三次の親孝行に感心して、泊まったというわけだ。

なぜこんなことになってしまったのか。父は元々、伊達三左衛門という侠客だった。ところが四十二の厄年に中風になり、子分の源太源兵衛に裏切られ、家も乗っ取られ、こんな狭いところに押し込まれてしまった。

「チャンの仇を討ちたい」という三次に、秀之助は刀を貸し、源兵衛のところへ行かせる。そして、最後は秀之助の助太刀もあって、見事に仇討を果たすことができたというわけだ。

その後、秀之助は津軽藩に身分を明かさずに入り込み、別当の秀吉(ひできち)として働くが、機を見て津軽越中守を討ち取ることに成功した。

「神宮寺川~二代討取」

津軽藩は初代は病死したことにして、すぐに二代藩主を立てた。そのため、桧山を南部藩に戻すことが出来なかった。秀之助は相馬大作を名乗り、あちこちに逃げながらチャンスを狙った。すると、神宮寺川の古戦場を津軽の殿様が通行するという。

船の警護は厳重である。というのも、相馬大作という男が殿の命を狙っているという噂が流れていたからだ。大作は素性を隠して船頭に近づき、「一儲けしないか」と誘う。自分が御座船の船頭になって、追分でも唄えば、殿様も機嫌が良くなって、300両ほどのご褒美に預かれるという…。船頭たちはまんまと引っ掛かり、大作に船頭を任せた。

だが、大作は追分を唄うわけがない。警護の16人の侍をバッタバッタと斬って、殿様を討ち取ることに成功した。しかし、大作はその場を取り押さえられ、江戸送りに。だが、「その駕籠、待った!」と止めた人物がいた。果たして、その人物とは?

「手紙読み~三代討取」

その人物とは大木戸宿松田屋で源之助に恩のある三次だった。すっかり任侠の男として逞しく成長した三次は大作こと源之助を匿った。だが、追っ手は追いかけてくる。小湊から九十九里まで逃げた。

源之助が言う。「俺は津軽の屋敷に入って、津軽土佐守を討つ」。そして、尾崎富右衛門宛ての手紙を三次に託した。勘当した息子の手紙なんか受け取らないだろうが、そのときには門番の真柄可内という慌て者だが人情に厚い男がいるから、その男に取り入れ、と言い残した。

案の定、三次が尾崎の屋敷に行くと、「故郷を離れて13年、音信不通の息子に用はない」と富右衛門は冷たい返事。だが、真柄に「真柄あっての尾崎、尾崎あっての真柄、と唄に歌われている」等と三次が持ち上げると、真柄はその気になり、主人の富右衛門に手紙を読むように説得してくれた。

手紙を読む源之助の父親。末尾に「奥州浪人相馬大作こと尾崎秀之助」とあって、顔色が変わった。南部藩の名誉のために津軽の殿様を討ってくれていたのは、我が息子であったのか!勘当は揺れた。

そして、源之助は芝増上寺で、津軽藩三代目藩主をも討ち取った。

面白い。今回はダイジェスト版だったが、9席を3日間連続で演じる会などできないだろうか。ダレ場が多いとのことだったが、隼人さんだったら、きっと面白く聴かせてくれるに違いない。そんな日が来ることを待ち望んでいる。