神田伯山「名月若松城」

浅草演芸ホール10月上席六日目夜の部に行きました。きょうから5日間は主任が神田伯山先生だ。今月1日にインフルエンザに罹患し、きのうまで休演していたが、きょうから完全復帰された。良かった。また、桂壱福さんが9月下席より松福と名前を改めて二ツ目に昇進した披露の芝居だ。おめでとうございます。

「雷電の初土俵」神田若之丞/「寛永宮本武蔵伝 山本源藤次」神田松麻呂/コント コント青年団/「つる」桂松福/「写真の仇討」柳亭小痴楽/音曲 桂小すみ/「桃太郎」三笑亭可龍/「元犬」立川談幸/奇術 養老瀧之丞/「悋気の独楽」三遊亭遊雀/中入り/ウクレレ漫談 ぴろき/「牛ほめ」三遊亭遊馬/「紙入れ」三笑亭茶楽/紙切り 林家喜之輔/「名月若松城」神田伯山

伯山先生の高座。真実を真実として訴える、名月のように一点の曇りのない、真っ直ぐな西村権四郎に惹かれる。なぜ、主君である蒲生氏郷は真実を曲げて、自分が家来たちに命を救われたことを認めないのか。寧ろ、岩石城の戦いにおいて、島津の軍勢200に取り囲まれたときに、自分の力で一点突破したかのような嘘をつくのか。憤りすら覚えたが、高座の後半にそれは“氏郷が権四郎を試していた”ということが判り、合点がいった。

松坂城の宴では、そのために権四郎は主君である氏郷に対し、悪口雑言を浴びせ、相撲でも決して勝ちを譲らず、真実を貫いた。そして、大馬鹿大将と罵って、城を後にした。そのときに、氏郷は権四郎ら家来に助けられたことを認め、恩賞を授けようと思っていたそうだ。家来を褒めるのが遅すぎたように個人的には感じるし、“あとの祭り”感は否めないだろう。

6年後。12万石から92万石取りに出世していた氏郷のいる若松城に、ボロを着た権四郎が訪ねる。松坂のときと同じ名月を愛でる宴というのは因縁だ。権四郎は、あのときの悪口雑言の非礼を詫びるために、自分の首を刎ねてくれと言う。だが、氏郷は権四郎の首を刎ねるどころか、彼との再会を待ち望んでいた。素直に自分の非を認めるためだ。岩石城では権四郎らのお陰で命拾いしたことに対し、感謝の念でいっぱいである、と。そして、権四郎に三千石を与え、その栄誉を讃えた。

僕は個人的に思うのだが、権四郎は果たして氏郷を心の底から許したのだろうか、ということだ。岩石城の戦いで命を救ってくれた家来に対し、すぐに恩賞を与え、感謝すべきではなかったろうか。氏郷にも主君としての見栄があったのではないか。“権四郎を試していた”というのは言い訳に過ぎないのではないか。

氏郷が12万石から92万石に出世している6年の間に、権四郎の心は挫けなかったのだろうか。悔しい思いはしなかったのだろうか。そして、若松城を訪ね、自分の首を斬ってくれと言ったときの心中はいかばかりだったのか。

手放しで“おめでたい話”として済ますことが出来ないのは僕の考え過ぎだろうか。上司と部下という現代に置き換えて考えると、複雑な思いが残る。そういう色々なことを考えさせてくれるという点において、とても魅力的な伯山先生の読み物だった。