真山隼人ツキイチ独演会
真山隼人ツキイチ独演会に行きました。花形演芸大賞銀賞を受賞し、今乗りに乗っている20代の若手浪曲師だ。「花形演芸会スペシャル~劇中浪曲『水戸黄門 ダフ屋のお蝶』」「違袖の音吉」「円山応挙」の三席。曲師は沢村さくらさん。
「花形演芸会スペシャル~劇中浪曲『水戸黄門 ダフ屋のお蝶』」は、6月に開催された令和4年度の花形演芸大賞各賞贈賞式を兼ねた会で大賞を受賞した神田伯山先生との軽妙なやりとりをスケッチし、その上でその会で披露した「ダフ屋のお蝶」を餡子に包んだ高座。伯山先生に“浪曲バカ一代”と仇名された隼人さんは、自分の紋である三ツ鐶桜の由来などを語り、6年ぶりに再会した伯山先生の演芸好きをリスペクトしているのがよく伝わる。
で、「ダフ屋のお蝶」はこの会のために作ったものではなくて、以前から満員御礼の会のときには、その会に当てはめて演じている隼人さんの創作浪曲だそう。まさに「花形演芸会スペシャル」は瞬時のうちにチケットが売り切れたので、この会にピッタリの演題で、観客は大喜びだった。だけど、伯山先生は隼人さんが降りてきたら、「空気めちゃくちゃにするなあ」と、冗談まじりだろうが、おっしゃったという…(笑)。
「違袖の音吉」は、講談ではお馴染みだが、浪曲では演り手がなく、隼人さんがSPレコードなどから起こした、いわば発掘演題だ。“若気の至り浪曲”と呼んでいたのが可笑しい。
茨の源兵衛と仇名され、怖れられていた源太源兵衛43歳に対し、何の躊躇もなく、喧嘩を仕掛ける音吉13歳がすごい。その場は父親の喜右衛門が涙を流して詫びて、許してもらい、喧嘩を辞めることを誓った音吉。だが、安心したからか、父親の喜右衛門は3日でコロッとあの世へ逝ってしまった。
これで「この世に怖いものなし」とばかり、音吉は源兵衛のところへ、「俺の子分になるか、ならぬか、はっきりしろ!」と出刃庖丁を持って駆け込む。30歳も離れた親分に、子分になれ!と掛け合いに行くという度胸。すごい。
源兵衛はカッとなったが、母親が「お前とは器が違う。これは子分になった方がいい」と言うので、その通りにすることに。年の差逆転の親分子分の堅めの盃を交わすが、音吉も素直だ。「俺に悪いところがあったら言ってくれ」「男が男をあげる、男の山を登るための頼みの綱にしている」と、源兵衛を信頼しているところもすごい。
音吉の快進撃は止まらない。堂島の三好屋一家の親分、根津四郎右衛門をも震え上がらせ、最終的には契りを交わすことになるのだから、大したもんだ。栴檀は双葉より芳し。度胸の据わった侠客として、名を上げる音吉に舌を巻いた。
「円山応挙」は、松浦四郎若師匠から習ったそうだ。長崎の栄屋という宿で偶然見つけた病みやつれた女性おたねの立ち姿を応挙が描いたことが、京都錦小路の甚助が営む居酒屋再建の助けとなった。
そればかりでなく、長崎のおたねが幽霊となって京都の応挙の枕元に立った。応挙が「美味しい物でも食べてください」と金子を渡したことで、以前のやつれていた姿ではなく、ふっくらとした様子だったのが嬉しいではないか。おそらく、感謝の言葉を伝えたくて、応挙の元を訪ねてきたのだろう。
すぐに姿は消えたが、応挙はこの姿を思い出し、再び絵筆を走らせる。そして、この絵を見た甚助とおたきの夫婦が、20年前の祇園祭のときに行方知らずになってしまった我が子、おたねであると判る。長崎へと急行した夫婦だが、残念ながらおたねは帰らぬ人となっていた。無念。
「幽霊画を」と再三再四催促していた九条公のためにではなく、おたねと甚助夫婦との間の親子の縁を繋げるために、円山応挙は絵を二度にわたって描いたことになる。最終的にはおたねの供養という形になってしまったが。私利私欲よりも大事にするものがあるからこそ、応挙は名人と言われるに相応しい。