「ノルウェイの森」~“世界のハルキ”はこうして生まれた~(5)
BSプレミアムの録画で「アナザーストーリーズ 『ノルウェイの森』~“世界のハルキ”はこうして生まれた~」を観ました。
きのうのつづき
学生運動から距離を取っていた村上だが、単純に嫌っていたわけではなかった。倉垣は村上と一緒に紛争の最中の東京大学に行ったことがあるという。安田講堂に立てこもり、大学改革を叫ぶ学生たち。村上はその様子を見ていた。そして、二人で交わした会話が倉垣には忘れられない。
僕がすごく覚えているのは、「レジスタンスの運動みたいなことが起こったときに、どっち側に立つかと問われたら、逃げたい、逃げ続けたい」「賛成か反対かではなく、棄権でもなく、逃げることは死を意味する場所でも逃げたいんだ」。積極的な“逃げる”なんですね。
社会の中で渦巻く様々な正しさ。それらと個人としてどう距離を取るのか、村上はそのことをずっと考えていると小山鉄郎は分析している。
常に向こう側とこっち側を同時に考える。いかにもそういうのに関わりのないような。村上春樹さんって、そういうのに全く関わりのないような感じを皆さん受けているけれど、普通にそういう話にもなるので、そういうことはずっと考え続けていると思います。敵は向こう側にいて、自分たちは正しいとか、そういうことでは問題は解決できない。向こうにある問題は自分にもある。村上春樹の文学はいつもそうなっている。
村上の2年先輩の松木哲志。学生運動に積極的に参加した。そんな松木にも「ノルウェイの森」は心に響いたという。
いつも死ぬということが傍にあって、それで生きているんだということが書いてあるんですけど、その辺はもう実感していますよね。
高い理想を掲げた学生運動だったが、互いの正義がすれ違う中で、やがて終息に向かっていく。松木も運動から離れ、大学も辞めた。
最終的にどこだっていうことに関して、自分で納得できる言葉は見つけられなかった。追い詰められ方、それをどうやって克服するかということに関して、みんなすごい努力したんだと思う。
あの激動の時代を振り返ったとき、相応しい言葉が「ノルウェイの森」の中にあると松木は言う。
一九六九年という年は僕にどうしようもないぬかるみを思い起こさせる。一歩足を動かすたびに靴がすっぽりと脱げてしまいそうな深く重いねばり気のあるぬかるみだ。(「ノルウェイの森」より)
小山鉄郎は語る。
理想を掲げて生きるということの大切さは村上さんは非常に持っている人となので、あの時代の学生たちが求めた学生運動の全体というのは、僕は肯定的だと思います。いわゆるその時代の失敗というか、理想を目指したことは良かったんだけど、理想がいろんな形で壊れていく。それに対する怒りみたいなものもあるだろうし、じゃあどうやったら世界は再生されるのか。それを非常に作家としてシンプルな何もない所から一個一個広げていった。「ノルウェイの森」もその重要な作品ですよね。
「ノルウェイの森」はあの時代を生きた村上にとって、いつかは書かざるをえなかった作品なのかもしれない。
芦原が言う。
青春の混沌の時代というか、混沌ですね。音楽も文学も、憧れも落胆も、希望も絶望も、ぐちゃぐちゃになっていた時代。一番生々しく自分の心を味わっていた時代かもしれませんね。この「ノルウェイの森」はリアリズムですよね、徹頭徹尾。事実ではないでしょうけれどね。名前も違うし、イコール、ワタナベ君とは思わないけど、こういうことを考えていたのかなと思いましたね。彼は必要に迫られたんでしょうね、内面の。「書いておきたい」というね。
つづく