【ザ・プロファイラー】温和な革命児 イラストレーター・和田誠(3)
BSプレミアムの録画で「ザ・プロファイラー 温和な革命児 イラストレーター・和田誠」を観ました。
きのうのつづき
20代の和田誠は広告制作会社のサラリーマンだったが、それとは別に映画館のポスター制作を引き受け、9年間描き続けた。お金は一切、貰わなかった。
新雑誌「話の特集」の創刊メンバーとなり、若い才能を発掘していった。当時は無名だった写真家の篠山紀信を起用、イラストレーターの横尾忠則も腕を奮った。原稿は新進気鋭の寺山修司や詩人の谷川俊太郎にも依頼。インタビューには石原慎太郎や勝新太郎などが登場。豪華なスターが誌面を飾った。実はこの仕事も和田の報酬はゼロ。
番組のテーマ②は「なぜ無報酬で仕事を引き受けた?」。
1950年代は映画の黄金期。映画館は連日満員だった。大学を卒業した和田は新宿の日活名画座で上映される映画のポスターを手がけるようになった。あるとき、印刷会社の社長が和田に映画のポスターを描いてみないかと声を掛けてきた。しかし、デザイン料はないという。
自分のポスターが町に貼られるなんて、こんなうれしいことはないから。タダでもちろん結構ですと言った。(和田誠「銀座界隈ドキドキの日々」)
和田は月に2枚ほどのペースでポスターを作製。9年にわたり映画館の壁を飾った。
1959年(昭和34年)、22歳。和田は当時としては珍しかった広告専門の制作会社に就職。担当はグラフィックデザイナーだった。入社1年目で大きなチャンスが舞い込む。新発売のたばこのパッケージデザインである。「ハイライト」という商品で、いくつかの案から選ぶコンペ方式だ。
和田が提出したデザインは、黒い闇の中で輝く銀の光。まさにハイライトという名前の通りだ。和田は自信を持っていたが、一応の予備の案も提出していた。青地に黒の光、モスグリーン地に黒の光というデザインだ。
すると、予備で出した青地のデザインがコンペで優勝を勝ち取った。23歳のときだ。
黒に銀だから光(ハイライト)になるので、青に黒ではこちらは光のつもりでも、人は光と思ってくれないだろう。実際、あの形は皆さんからヘソと呼ばれた。
宇野亞喜良さんが言う。
和田君らしく明るくて文字が読みやすい。可続性がある。都会人のいう「カワイイ」。傑作の一つだと思います。センスがお洒落というのは、何を通してもそうですね。
サラリーマン生活も一風変わっていた。退屈な会議の最中、和田はスケッチブックに落書きをしていた。1960年のことだ。落書きの一コマ漫画で、すべて象をテーマにしたものだった。落書きは会議の度に、どんどん増えた。同僚はそれを見るのが楽しみだったという。
あるとき、落書き帖が社長に見つかってしまった。てっきり怒られるのかと思いきや、「面白いね。これを本にしてあげようか」。和田の記念すべき出版第1号。「21頭の象」だ。費用は会社が出してくれた。非売品で、クライアントへのプレゼントなどに使われた。
この後も、「絵本を作りたい」という気持ちはどんどん強くなっていった。
つづく