【擬古典の夕べ】ナツノカモ作品が将来の“古典落語”になる可能性を強く感じた
月島社会教育会館で「擬古典の夕べ」を観ました。(2022・03・14)
副題に「ナツノカモ江戸噺」とある。最近、活動が盛んになってきた、落語作家のナツノカモ作品5席を味わえる会である。それも、「擬古典」。わかりやすく言うと、江戸を舞台にした新作落語だ。そっちの言い方の方がポジティブだと思うんだけど、「古典を装っている」いうネガティブな表現はあまり好きではない。
ナツノカモさんの創作落語は魅力的である。だから、ギコテンとか、そうでないとかを超えて、面白ければそれで良いと思う。ナツノカモさんがこの会のパンフレットにこう書いている。
「擬古典って言うらしいですよ。そういうの」。ある時、吉笑さんが教えてくれた。それは古典を模した落語で、あたかも古典を装った落語。登場人物は既に存在する八っつぁんやご隠居さんや狸などで、聞いているお客さんは導入部で「古典なのかな?」と思う。そこに現代的な発想を入れたり、まだ出会っていない人物同士を出会わせたりして、お客さんを驚かせる。舞台が江戸風というのは昔からあった手法ではあるが、意識的に「擬古典」という言葉を使って行けば、やがてスタンダードになるかもしれない。パロディや遊びとして演るのではなく、何度聴いても面白い、誰が演っても面白い、まさに次の古典となる噺を生み出すことに力を注ぐ。同じようなキャリアに同じような考えを持った仲間がいたことを心強く思ったものだった。(以下、略)
この日のナツノカモ噺にも、次の古典になる可能性を感じた。
「右差しの侍」柳家り助
そう言えば、子供の頃はよく「左利き」の友達を「ぎっちょ」と呼んでいたなあ。現代はそれも差別用語になるのか、あまり耳にしなくなった。でも、この噺のように、ぎっちょ=カッコイイ!という価値観が生まれたら、と考えると、世の中の価値観なんて絶対ではないのだなあと思う。
「不当易者」三遊亭好二郎
腕がある易者というのは、「必ず」ピシャリと当てるわけではないという発想が素晴らしい。そうなのだ。易者とか、占い師とかは人の背中を押す仕事だ。たまに外すくらいが良い。人生相談だって、本当に相手の言うことを100%聞こうとは思っていないはずだ。だから人生は面白いのかもしれない。
「頬苺」柳家小もん
この噺だけは、申し訳ないが、噺の構造が理解しがたく、腑に落ちなかった。作者のナツノカモさんは「幾代餅の逆」を行ったと書かれているが、それと蛇苺の関係性がよくわからなかった。恋女房の巳之吉を亡くした善吉の心の奥に入っていけなかったのが残念だった。
「貧乏神の良心」三遊亭花金
上に比べて、この噺はわかりやすいし、面白いし、すっきりする。裕福な家柄に生れたお嬢さんが、貧乏な男と恋をした。釣り合いが取れないので、夫婦になれない。貧乏神がお嬢さんのところにやって来たが、同時に追い出された福の神がその貧乏な男のところに行って…。サゲも鮮やかで、こういう噺が後世に残ると思った。
「お初政五郎」入船亭小辰
噺を聴く前は、恋物語?と想像したがさにあらず。殿様の可愛がっていた猫の名前が政五郎。その愛猫が行方不明になり、探しているというところもメルヘン。そして、長屋に住む道具屋の娘・お初(6歳)は月と話ができるという評判で、これまたメルヘン。殿様の愛猫の行方をお月様に訊いてくれないかとの依頼が来るというのも、何とも言えずファンタジーではないか。