鳳舞衣子「君が代ができるまで」信念を曲げず、貫き通せば、やがて認めてくれるときがくる。

木馬亭で「日本浪曲協会定席」を観ました。(2022・02・04)

鳳舞衣子先生の「君が代ができるまで」に、感じ入るものがあった。曲師は伊丹明師。史実とは異なる部分があるようだが、それはそれ、浪曲として楽しめればいいわけだ。ノンフィクションではなく、フィクションとして、いかにドラマチックに演出するか。そこに話芸の醍醐味がある。

明治初頭。主人公は宮中雅楽の笙の奏者だった、林廣守。一等伶人である。その林が英国海軍軍楽隊のフェントンから「日本も国歌を作るべきだ」と意見をされ、林は政府にその旨を進言した。

当然、国家の事業であるから、宮中雅楽の林らに作曲の依頼が来るものだと思っていたら、政府は英国のフェントンに依頼をした。悔しい思い、いかばかりか。林は「日本人が作るべきだ」という主張のもと、西洋の楽譜、いわゆる“おたまじゃくし”を勉強し、故郷の大坂天王寺で作曲に没頭、完成させた。

だが、その林が作った国歌「君が代」を嘆願すると、逆に政府に背いたとして、市ヶ谷監獄の投獄されてしまう。さらに悔しさは募るばかりであったろう。投獄中、そして釈放後の雑司ヶ谷での極貧生活でも、林の理解者は妻にさき子のみ。さき子は献身的に病弱となった林を支えた。

ある日のこと、林の元へ文部大臣・森有礼から遣いが訪ねてきた。林の作曲した「君が代」が国歌として認められ、採用されたという。嬉しい報せである。その上で、正四位の勲章を授けられ、天皇陛下から見舞金まで贈られた。

喜ぶ林夫婦。「この勲章は私がかけるより、お前がかけた方が良い」。そう言って、林は妻のさき子の首に正四位の勲章をかけてあげたという。

そのとき、ちょうど天長節。近所の小学校では児童たちが国歌「君が代」を歌う歌声が聞こえてきたという。

お上が認めなくても、自分の信念を曲げずにいれば、いつか認めてくれる日がやってくる。林のその一途な信念も立派だが、それを陰から支えた妻のさき子の厚い信頼と愛情があればこそ。

「君が代」誕生の裏に夫婦の情愛あり。そんな浪曲に感じ入った。