【プロフェッショナル 鮨職人・小野二郎】修業は、一生終わらない(3)
NHK総合の録画で「プロフェッショナル 仕事の流儀 鮨職人・小野二郎」を観ました。(2008年1月8日放送)
きのうのつづき
江戸前握りの名人と言われる小野二郎。しかし、名声の陰には途方もなく長い修行の時代があった。
二郎は大正14年、静岡で生まれた。父は材木を運搬する船の船頭だった。幼い頃、昭和恐慌が起こり、父の収入が激減。母が働きに出るため、二郎は親戚の家に預けられた。一年経ったある夜、二郎は親戚と母親が言い争う声を聞く。「もう面倒は見きれない」。
翌朝、母親から切り出されたのは奉公の話だった。7歳の二郎は黙って頷いた。奉公先は地元で一番の料亭。小学校に通いながら、掃除、出前、皿洗いと深夜まで走り回った。
二郎は生来の不器用、何をやっても時間がかかり、怒鳴られてばかりいた。一つの思いだけが二郎を支えた。「帰る場所はない」。
二郎が振り返る。
お前要らないから帰れと言われても、帰るところがない。叱られても、怒られても、極端に言うとゲンコツ食らっても、いなきゃしょうがない。
終戦後、浜松の割烹で板前として働き始める。いつしか自分の店を持ちたいと思うようになった。独立するなら、金のかからない鮨屋が手っ取り早い。25歳のとき、客の紹介で江戸前握りの御三家と呼ばれた東京の鮨屋の門を叩く。26歳での遅い弟子入り。二郎はがむしゃらに修行した。
親方から教えられたのは「本手返し」という伝統的な握り方。しかし、不器用な上に左利きの二郎は本手返しがうまくできない。昼休み、先輩たちが遊んでいる中、おからを買って来ては練習を重ねた。しかし、どれだけやっても、すばやく綺麗に握れなかった。
二郎が言う。
何やっても不器用ということはありましたよ。綺麗な形にするには、どうすればいいか。数やらなきゃできないと思うから。人の二倍三倍は握っていたんじゃないですか。
ある日のことだった。忙しさのあまり、二郎の手が無意識にいつもと違う動きをした。鮨を手の上で転がして返した。伝統の本手返しでは手を持ち換えて鮨を返す。しかし、無意識にしたその握りは手を替えないため、より早く握れた。これが「二郎握り」へとつながっていく。
40歳のとき、二郎は念願の独立を果たす。僅か15坪の店で、毎日毎日鮨を握り続けた。そして、もっと美味い鮨ができないか、それだけを考え続けた。
40代、仕込みを工夫して、カツオなどの新しいネタを生み出した。
50代、さらに上を目指し、ネタの温度に注目するようになった。
60を過ぎても、70を過ぎても、二郎はさらなる高みを挑み続けている。
7歳のときから働き詰めの不器用な男が、気が付くと名人と呼ばれるようになっていた。
つづく