【談春アナザーワールドⅦ】「按摩の炬燵」

立川談春師匠が2010年1月にスタートして、18回にわたっておこなった「談春アナザーワールド」の当時の記録を残していきたい。きょうは2011年3月の第7回だ。

このシーズン2の初日に、師匠が「按摩の炬燵」を演り終ると、主催者側のスタッフが楽屋に飛び込んできて、「この噺は何なんですか!何が言いたいんですか!何で按摩さんを炬燵にするんですか!」と目くじらを立てて言ったという。いわく、目の不自由な人をいじめているみたいで可哀想。師匠は答えたそうだ。「江戸時代は皆、一緒なんだよ。按摩も奉公人も番頭も一緒に普通に暮らしていたんだ。按摩は困ってなんかいない。可哀想じゃない。むしろ、50を過ぎても番頭をやって、店に奉公している方が可哀想なんだよ。あなたの言うのは現代人の考え方だから」。

まさしくそうだ。奉公人の小僧も、按摩の米市もひとつの共同体の中で無意識に労わりながら暮らしている。そこに「差別」という意識はない。「社会的弱者」という意識もない。それで、皆が幸せに暮らしていたのだ。そのスタッフは続けて言ったという。「続きはないんですか?」。失笑である。「あなたの聴いてきた『紺屋高尾』とか、『文七元結』とか、『芝浜』とか。あれも落語なら、これも落語。むしろ、こっちの方が落語なんだよ」。美談の落語しか聴いたことのなかった、そのスタッフはもう少し落語を勉強するといい。江戸時代には江戸時代の、明治時代には明治時代の、社会の仕組みとか、そこで暮らす人々の共通認識があって、それはそれでよくできているのだ。

師匠が先日、小田急線の新宿駅で、ラッシュアワーの時間帯に電車に乗れなくて何本もやり過ごしている盲人を見たそうだ。気の毒に思って、手をつかまえて乗せてあげようとしたら、その盲人は酷く怯えて、「やめてください!私のことはほっといてください!」と言われたのだと。盲人には盲人の尺度がある。それを理解しないで、可哀想に思うのはお門違いなのだろう。親切と思ってやったことが、逆に迷惑になることもある。それは別にして、「按摩の炬燵」は心の温まるいい噺だと僕は思うのだが。

立川談春「按摩の炬燵」
大所帯を束ねる番頭さんの了見の良さが素敵だ。小僧たちが寒さに堪りかねて、「布団を増やしてくれ」と懇願すると、「奉公を何だと思っているんだ。何のための修行だ。そこを耐えて、偉くなるのが修行というものだろう」。「番頭さんは、いいですよ。炬燵にでも入って、温まればいいんですから」と言われ、「私は炬燵なんか入れていません。私がやれば若い者が真似をする。若い者がすれば、小僧たちも真似をする。それで、火事でも出したら大変なことです。だから、私は行火も炬燵もやらないんです!」と厳しく叱咤する。で、その後がいい。諦めて帰ろうとする小僧たちに、「お待ちよ、松どん。寒いよなぁ。ここ2、3日は格別だ」。この優しい気持ちが奉公人を束ねる人徳というものなのだろう。その了見が気に入って、米市さんが「その番頭さんの優しさに感じ入った」と請合うのだ。

そして、酒をご馳走になる米市さんの仕草と表情が絶品だ。お酌をしてもらい、湯呑みに指を突っ込むという細かい芸もいい。「私だけ?他の人はやらないの?いただきます。こらぁ、結構。上等です。ありがたい。喉をどんどん通っていく」・・・「よくお客さんに貰うんですけど、大概は飲み残しの燗冷まし。美味くない。一合でいいから、上等な酒が飲みたい。療治の帰りに酒屋で立ち飲みするのも、美味くないんだ。酒は燗をしないと引き立たない」・・・「オッ!火が起きてきましたよ!」。ハゼの佃煮を口に入れ、美味そうに飲む米市さん。「酒は燗ですよ。いい酒は冷やの方がいいと言う人がいるけど、嘘。きょうは上燗だねぇ。下戸が燗をつけると、困るんだ。煮え燗になっちゃう。フーフーと吹いて、泡が立つ。人肌だよ。お燗番は誰?松どんがつけた?いける口だね?わかるよ。素人にはつけられない。わかるよぉ」。もう、上機嫌の米市さん。

「内儀さんをもらって、温かいのをキューッとやるのは幸せだろうな。この間、内儀さんをもらおうと、見合いをしたんです」「按摩に見合いがあるのかい?見えないのに」「馬鹿にしないでください。心の眼がある。まぁ、綺麗ごとですがね。身体検査をするんです。骨組みを見る。腰から背中、肩と。身体に病があるか、丈夫か?」・・・「それだけじゃぁ、面白みがない。器量を見る。顔を触るんだ。額、目、鼻、唇、顎。本当は触らなくていいんですけどね。馬鹿な話でしょ?」・・・「この間は、結構な骨組みで、いい声だった。で、お楽しみをやったら、鼻がない。逆撫でしたら、かすかにこんもりと真ん中にある。冗談じゃねぇ!と言って、帰っちゃった」。

「私には家内はいない。家内は酒だよ。これがあれば、何も要らない」。「あんまり、いい話じゃないよ」と番頭が言うと、「番頭さんはそう言いますがね、しみじみ考えた。近江屋の旦那の療治を終えて帰るときに、お月夜ですか?闇夜ですか?と訊いたら、闇夜だと言うので、提灯を拝借した」「いるの?」「世の中に目明きほど不自由なものはないね。闇夜には目明き避けの提灯ですよ。この間なんか、人がぶつかってきたから、『この提灯の火が見えないのか?』と怒鳴ったら、『消えているよ』って。偉そうなこと言っちゃいけないね。生涯、厄介者だ。可愛がられないといけないな」。そう言って、笑う米市さんの言葉には盲人の気丈な生き方がにじみ出ている。

「炬燵?あぁ、どうもご馳走様でした。とても自分の稼ぎじゃぁ、飲めない。支度をしましょう。帯を解いて・・・その帯は片付けないでね。印にするんだ。番頭さんの寝間へ?ハイハイ。皆、ついてくるんだ。将軍様みたいだな。ひとりで喋ってごめんなさい。おやすみなさい」「米市さん!炬燵の形で寝てもらわないと困るんだ。松どんと金どんは右。長どんと照どんは腰。私は左だ。長松は頭にあたりなさい。お前の股で、頭をしっかり挟んで!」「こんなに大勢であたるんですか?痛!」「駄目だよ!奥に内緒なんだから。大声を出しちゃ」。「冷たい!誰の足?股に足を突っ込んだ!急所だよ」・・・「背中に小さな足。長松だね」・・・「炬燵の尻を掻いてどうする?手がしもやけ?」・・・「せっかく飲んでも、何にもならない」。

そんな騒ぎも落ち着く。「皆、寝ちゃった。疲れ切っているんだなぁ。ご当家は忙しい。朝から晩までだ。商人は働きづめ。私の方がよっぽど幸せだ。火事でも出したら一家の主に申し訳ないと、炬燵を入れない。奉公人は大変だ。人様の飯を食わないと一人前になれないんだな。番頭さんもいいことを言っていた。私はどんなに寒くても・・・。一番上のものがしっかりしていると、下がついていく。あの台詞で引き受けたんだ」。この噺を聴くたびに、ホロリとさせられてしまう部分だ。僕にとっては人情噺だ。ネタおろしとは思えない心が温まる素敵な高座であった。