【伊東四朗83歳】生涯、いち喜劇役者。(上)

NHK-BSプレミアムの録画で「伊東四朗83歳 生涯、いち喜劇役者」を観ました。

森繫久彌、渥美清、古くは戦中戦後の榎本健一、古川ロッパ…大衆演劇はかつてスターの登龍門だった。そんなスターを食い入るように見つめている少年がいた。のちの伊東四朗、その人である。伊東は今年、「生誕?!80+3周年記念 みんながたらくた」という芝居に主演した。この番組ではその芝居の稽古風景を追いながら、同時に伊東の半生を振り返った。

昭和最後の喜劇役者と称されることもある伊東は語る。

喜劇人の先輩方が全部私の血となり肉となっている。それだけに責任がある。生涯、喜劇役者でありたい。

昭和、平成、令和と激動の時代を駆け抜け、今なお現役にこだわる役者魂を見つめた番組だ。

2月初旬。舞台稽古初日。コロナの予防策を万全にしての稽古がはじまった。このご時世でも、伊東は上演にこだわった。

毎日コロナのニュースで鬱々としている人たちに観ていただいて、ひとときでも笑ってもらえれば違うと思っている。

ほかの演者が台本を片手に稽古しているが、主演の伊東は台本を持っていない。稽古初日までにはただひたすらセリフを覚えるという。2時間弱の芝居の2/3に出演する伊東は、台本を持つことによって芝居が制限されることを嫌う。

共演の戸田恵子が語る。

兎に角、覚えるのが早い。伊東さんが台本を外したら、みんなはなさざるを得ない。本当にすごいことです。

セリフを覚えて、その上で相手のセリフを頭に入れる。これには、ある人物の影響があると、伊東は言う。

私の血となり、肉となっている80%ぐらいは森繫久彌さん。零点何秒という間合いが違うだけで印象が大きく違う。セリフを言う間合いと、相手のセリフを聞く間合い。いつの間にか学んでいたんだろうと思います。

伊東四朗、本名・伊藤輝男は昭和12年、台東区の生まれ。五人兄弟の四番目だ。父の金三郎は仕立て職人だった。幼い頃の楽しみは浅草の大衆劇場で家族と芝居を観ること。そこで初めて喜劇と出会う。

伊東が振り返る。

エノケンさんの舞台を観に行った6歳ぐらいのときに、思わず手を叩いた記憶があります。それが喜劇との出会いです。

当時、エノケンこと榎本健一は小さな体で動き回るドタバタ喜劇が大人気で、風刺の効いた歌を得意とした古川ロッパと人気を二分していた。

立錐の余地のばいお客さんでした。大人が「お前、こっちへ来い」って、前に出してくれましたよ。夢中になっていましたね。

中学校の文化祭では英語劇「猿蟹合戦」をやって大受けした。高校に入学すると、一層喜劇にのめり込む。ある日、ある人物に心を奪われた。森繫久彌である。

ちょっと違いましたね。エノケンさん、ロッパさんの時代とは。セリフが洒落ていたような感覚がありました。文学的にはすごい知識をお持ちだし、ドタバタの知識も持っている幅の広い人でした。

高校3年生(昭和30年)のときに観た「森繫のやりくり社員」が忘れられないという。

素敵な歌だったものですから、2度か3度観に行って、大学ノートに歌詞を書いて、メロディーは覚えられないので、また行って、メロディーを覚えて。

森繫はラジオ番組のプロデューサーという役で、珍しいブッポウソウという鳥の鳴き声を聴かせて、スポンサーをビックリさせようという筋書き。デンスケを担いで録音に行くんだけれど、ちっとも見つからない。それで、自分が木に登って「ブッポウソウ」と鳴くという顛末だ。

ユーモラスかつ哀愁漂う演技。そして、独特の間合い。それらがやがて最後の喜劇役者と呼ばれる伊東四朗の血となり、肉となっていったのだ。

つづく