【伊東四朗83歳】生涯、いち喜劇役者。(中)

NHK-BSプレミアムの録画で「伊東四朗83歳 生涯、いち喜劇役者」を観ました。

きのうのつづき

伊東四朗83歳が一日5時間の舞台稽古。その合間を縫って、2時間のラジオ生放送のパーソナリティー、テレビCMの撮影、雑誌の取材と大忙しだ。

今回の芝居の演出を担当するラサール石井が語る。

稽古がはじまると、動きが早くなって、ビシッと立って。セリフが完全に回ってくると、声も張られて。アスリートみたいに常に100%のパフォーマンスを発揮しますよね。

伊東には一つのポリシーがある。

来た仕事は絶対にやります。すべて、誠意をもってやる。どんなにつまらない仕事にも、手を抜くなと自分に言い聞かせてやっています。

それは若い頃の体験が関係している。もはや戦後ではない、と言われた昭和31年。高校を卒業した伊東は安定した仕事に就きたいと就職活動をした。しかし、ことごとく落とされる。それは小学生のときに右頬に深い傷を負ってしまい、強面だったことが影響した。仕方なく、牛乳配達などのアルバイトをして稼ぐ。そして、その賃金を握りしめてストリップ劇場に通った。

新宿2軒、浅草4軒、池袋1軒。それらを見まくる。全部そこにコメディアンがいるんですよ。

娯楽の多様化で大衆劇場が廃れ、コメディアンはストリップの合間に出るようになった。渥美清もその一人だった。

山下清画伯の物真似を一番最初に見ました。毎日のように通い詰めました。すると、ある日、コメディアンの一人だった石井均が「おい!寄ってけ!」と声をかけてくれた。「今度、俺、劇団を作るんだ。お前、出てみるか?」と言われたのがはじまりです。

トイレから出て、ジッパー上げて、歌いながら去る役だったんです。その時の歌が石原裕次郎の「男の横丁」。♪おいらが歩けば おいらの背中に落ち葉が注ぐよ

これがきっかけとなり、21歳で入団。喜劇役者・伊東四朗の誕生である。

いつかはこの世界に入ろうと思ったことは1回もないんです。(石井均さんが)私のことを知っているなんて思ってもみませんからね。客席の一人ですから。人生にはそういうことがあるんでしょうね。いまだに不思議な体験です。

しかし、喜劇役者の道は険しかった。10日ごとに新しい公演。徹夜で台本を覚えるのは当たり前。しかも、舞台に上がっても、ちっとも受けなかった。「何やってんだ、お前。あそこでウケなくてどうするんだよ」と言われた。そこへフラッと渥美清が友人の石井均を訪ね、「均ちゃん、やってる?・・・新人かい?おかしな顔しているね」なんて、声を掛けられた。いつかは大きな舞台に立ちたい。下積みを3年やった。

そして、三波伸介、戸塚睦夫とてんぷくトリオを結成。テレビの普及でコメディアンが出る演芸番組が急増。その流れに乗った。出演した「てなもんや三度笠」は視聴率60%を超え、人気者になった。

そんなとき、意外な人物が伊東に注目していた。昭和31年公開「ビルマの竪琴」の監督、市川崑である。市川は新聞にこんな伊東四朗の評を書いている。

てんぷくトリオの中の一番若くて一番やせている人。演技開眼したらしく、からだとセリフのタイミングが見事。おもしろい。

伊東が語る。

驚いたのは、ああいう大監督がコントを見ているということですね。誰が見ているか分からんぞという気持ちになりましたね。私はてんぷくトリオの中では一番目立たない地味な男でした。そういうところから声がかかった。青天の霹靂です。

昭和44年には大河ドラマ「天と地と」に出演。主人公・上杉謙信の家臣というシリアスな役である。

目を疑い、耳を疑いました。間違いじゃないかと思いました。ほかに伊東っていう役者がいるんじゃないの?って。

いつ、どこで、誰が見ているかわからない。どんな仕事でも引き受け、誠意をもって取り組む。そのポリシーを身につけた。

昭和58年の連続テレビ小説「おしん」で、役者としての評価を着実に高めていった。

つづく