【2月文楽公演】「伽羅先代萩」乳人政岡の徹底した忠義心。幼い鶴喜代君の武士としての心得。母の教えを頑なに守る千松の健気。
国立小劇場で「2月文楽公演 伽羅先代萩」を観ました。(2021・02・15)
この演題の最大の眼目は何と言っても、乳人政岡の徹底した忠義心だろう。それは、それは、幼くして為政者となった若君の鶴喜代を徹底的に守るという忠義。鶴喜代を暗殺して御家乗っ取りを企む一団vs奥御殿に籠る政岡とその息子・千松という構図に、そこまで頑張るのか!よし、応援するぞ!悪い奴らになんか負けるな!と政岡に泣きながらエールを送ってしまう、そんな作品だ。
兎に角、どんな罠が仕掛けられているか、わからない。毒殺を恐れ、自分の用意した食事以外食べさせない用心深さ。ゆえに、茶道具を使ってご飯を炊くという、(通称「飯炊き(ままたき)」)その大変さに哀れを感じる。また、政岡の息子の千松が毒見役で、「若君を守るために毒でも口にする」よう母親から教え込まれているのが凄い。これが結果的に功を奏するというか、千松にとっては悲しいことになってしまうのだけれども。
守られている鶴喜代も健気である。「お腹がすいても、ひもじうない」。幼いながらも武士としての確固たる心得と、子どものあどけなさといじらしさがこの台詞にこめられている。「乳母が食べずに死にやつたら悪い。ナア、千松。そちが死んでも悪い」。餌を啄む籠の中の雀や、前日の御膳の余りを食べる飼い犬の狆がいることで、さらにひもじいことの辛さが増幅されるなあ。
御家乗っ取りの一味である栄御前が見舞いと称して、頼朝公より下された菓子を持参したときの場面はクライマックスだ。一味の中でも一番に憎たらしい八汐が菓子を鶴喜代に勧める。手を出す鶴喜代。それを制する政岡。栄御前が「食べないのは失礼ではないか」と迫る。そこに千松がやってきて、菓子を一口に食べる。菓子には毒が仕込まれているから、千松は苦しむ。毒殺計画がばれてはまずいので、八汐が千松を懐剣でなぶり殺してしまう。
ところが、政岡は鶴喜代の守護に徹し、我が子の死に一滴の涙もこぼさない。その態度は栄御前が鶴喜代と千松を入れ替えたのではと一人合点し、逆に自分たちの陰謀を打ち明けてしまうくらいだ。堪ゆる辛さ無念さをぢつと堪ゆる辛抱は、ただ若君が大事ぞと涙一滴目に満たぬ男勝りの政岡が忠義は先代末代まで、またあるまじき烈女の鑑。ポーカーフェイス政岡は忠義のための演技だったのだ。
しかし、やっぱり烈女とはいえ、政岡も一人の母親。悪の一味が去って、一人残された政岡は千松の亡骸に駆け寄って抱きしめる。今まで堪えていた悲しみの吐露が胸に迫る。コレ、千松よう死んでくれた、出かしやつた…人目なければ伏し転び、死骸にひつしと抱き付き、前後不覚に嘆きしは理過ぎて道理なり。観客の目にも涙が溢れる場面だ。毒らしきものがあれば若君の代わりに食べるように普段から教えていた政岡。こんな酷い母親があろうか、と慟哭する。
初演時は天明の大飢饉の真っ只中で、「侍の子はひもじい目をするのが忠義だ」と空腹に耐える千松のいじらしさは、当時の観客の心も掴んでいたという。また、四代目竹本越路太夫は、昭和初年に御簾内で先輩の舞台を聴いていた頃、六代目竹本土佐太夫のこの箇所(「乳母が食べずに死にやつたら悪い。ナア、千松。そちが死んでも悪い」という鶴喜代の台詞)で毎日涙が止まらなかったと、プログラムの中の「上演作品への招待」で早稲田大学教授の児玉竜一先生が書いている。
伽羅先代萩
竹の間の段 豊竹靖太夫/野澤錦糸
御殿の段 前 豊竹呂勢太夫/鶴澤清治 後 竹本錣太夫/鶴澤藤蔵
乳人政岡 吉田和生/鶴喜代君 桐竹勘次郎/千松 吉田蓑太郎/八汐 吉田玉志/沖の井 吉田一輔/小巻 吉田蓑紫郎