【女の一生】75年経っても古びない戯曲の素晴らしさ。大竹しのぶが伝える“自分が選んだ道を邁進する強さ”
新橋演舞場で「女の一生」を観ました。(2020・11・16)
この芝居を観て、一番最初に驚いたことは、この芝居の初演が1945年、東京渋谷で、本番中でも空襲警報が鳴れば中断という状況だったことだ。終戦間際に文学座の座付き作家だった森本薫によって書かれたこの芝居で杉村春子は主役の布引けいを947回演じ、当たり役と言われた。そのけいを今回、大竹しのぶが初めて演じた。
あらすじはこうである(プログラムから抜粋)
明治38年(1905)日露戦争の後―日本がようやく近代的な資本主義国の姿を整え、同時にその動向が世界の国々と絶ちがたく結び合い、影響し始めた時代。戦争孤児の境涯にあった布引けいが、不思議な縁から拾われて堤家の人となったのは、そんな頃である。
清国との貿易で一家を成した堤家は、その当主はすでに亡く、後を継ぐべき息子たちはまだ若く、妻しずが義弟・章介に助けられながら、困難な時代に一日一日を処していた。甲斐甲斐しい働きぶりを見せるけいは、しずに大変重宝がられた。同時にけいと同様に闊達な気性の次男・栄二とも気性が合い、お互いにほのかな恋心を抱くようになった。
そのけいの思慕とは裏腹に、しずは跡取りであるべき長男・伸太郎の気弱な性格を気がかりに思い、気丈なけいを嫁に迎えて、堤家を支えてもらう事を望んだ。しずの恩義に抗しきれなかったけいは、伸太郎の妻になった。同じ頃、栄二は家を飛び出した。
時は流れて、正真正銘堤家の人となったけいは、しずに代わって家の柱になっていく。家業を守り抜くという担い切れぬほどの重みに耐えながら、けいはその「女の一生」を生きるのである。
昭和20年・・・。二つの大戦を経る激動の時代を生きて、今、焼け跡の廃墟に佇むけいの前に、栄二が再び戻ってきた。過ぎ去った月日の、激しさと華やかさを秘めて、二人はしみじみと語り合うのであった。以上、抜粋。
名作である。けいは生半可な力量で太刀打ちできる役ではない。少女時代から、大正、昭和初期を経て、終戦後に書き足された59歳の場面までを、一つの舞台で、40年に及ぶ諸相を演じ分けねばならない。それを大竹しのぶが演じ切った。
長男・伸太郎を演じ、演出を担当した段田安則はプログラムにこう書いている。
文学座の宝のような「女の一生」を自分が演出していいのだろうか。しかし、せっかくやらせていただくのだから自分なりの新しい視点を入れたい。そんなふたつのせめぎ合う思いを抱きながら稽古がはじまりました。(中略)
昭和20年4月の初演は、警戒警報のなか命がけで上演されたそうです。このコロナ禍での上演は、それほどまでして観たいと思わせた演劇の力というものを思い起こさせてくれる気がします。布引けいの人物像もけして古びていません。以上、抜粋。
大竹しのぶは読売新聞のインタビューで、杉村春子が亡くなる1997年にドラマの撮影で一緒になったときに言われた言葉を回想している。
「『あなたはいいわね、自由な時代に生まれ、自由に芝居できるんですもの。頑張りなさいね』。私たちも(コロナ禍という)不自由な時代に突入したわけです。それでもやっぱり芝居がしたい」。
布引けいは仕事や家族と向き合って生きてきた。その姿は、現代を生きる女性と変わらない。ただ健気に頑張るというだけなく、人間としての嫌な面も見える。激動に時代を生き抜くために、非情な決断も必要だったというリアリティーも描かれている。そこは、男も女も関係ない。強く生きることの大変さに共鳴を覚えた。
けいの名台詞がある。「誰が選んでくれたのでもない、自分で選んで歩きだした道ですもの」。自分で選んだ道を邁進することの大切さを教えてくれた。ありがとうございます。