柳家権太楼「唐茄子屋政談」 七十を超えてもなお、噺に磨きをかける作業を怠らない姿勢に感服

日本橋公会堂で「権太楼ざんまい」を観ました。(2020・09・23)

柳家権太楼師匠は情熱の人だ。「私は同じネタを納得いくまで何度でもかける癖がありまして」と断りつつ、「でも、これは今年最後にします!」と言って、「唐茄子屋政談」に入った。以前、池袋演芸場でやっていた「日曜朝のおさらい会」で何度も同じネタを毎回繰り返していた頃を思い出した。現状に甘んじることなく、噺を進化させていく姿に、ただただ頭がさがるばかりだ。

柳家権太楼「唐茄子屋政談」

まず、若旦那が「勘当された」ことの重みの強調。番所に届けて、現在の戸籍のようなものである人別帳から外されてしまう。そこは「湯屋番」や「船徳」の若旦那と違うところで、だから、親類にお触れが廻っていて、引き取り手がない情けなさがは尋常ではない。ルンペン、乞食同様で、三日も何も食べていないひもじさゆえ、死んだ方がましと思うのも無理がないと納得がいく。

助けた叔父さんの優しさと厳しさの同居もいい。出された漬物とおまんまを若旦那が泣きながら「美味しいです」と言うと、料理屋で贅沢三昧をしていた頃の甘えを叔父さんは指摘する。さらに、唐茄子を売り歩くことに抵抗した若旦那に、「唐茄子に口があったら、唐茄子の方が『みっともない』っていう」と言い、親の金を使い込んで遊び、町内をうろうろしていた若旦那に「自分の稼いだ銭で遊ぶ素晴らしさ」を説くあたりに、叔父さんの芯の優しさが出ている。

若旦那が石に躓いて転び、唐茄子をぶちまけてしまったら、「俺が売ってやる」と世話を焼く近所の男も人情家だ。自分も昔、吉原の女でしくじって、八王子まで逃げたことがあるという台詞に説得力がある。そして、「お前は素人だから休め」と夢中になって売りさばき、町内の八百屋や通りすがりの知らない男にまで売ってしまう。「叔父さんを恨んじゃいけない。男を教えよう、と思っているんだ」というのも、いい台詞。

吉原田圃の回想は、端唄が印象的。♪鬢のほつれは 枕のとがよ それをお前に疑られ つとめじゃえ 苦界じゃ 許しゃんせ~。

誓願店で三日何も食べていない母子に出会った若旦那の「三日食べない苦しさは知っているんです」の台詞も印象に残るし、説得力がある。売り溜めがないことが判明したときの叔父さんは厳しかった。「お前の親父みたいに甘くないぞ」。それに対し、若旦那が両手をついて事情説明するところ、叔母さんが鯵を焼くのをやめたり、また焼いたりして、面白さと同時に叔父さんに心情の揺れ動きが表現されていて、実に上手い。

再び誓願寺店に戻った若旦那が因業大家にカッとなるところ。その前にきちんと、売り溜めを渡されて「受け取れない」と若旦那を追いかけたおかみさんからひっぺ返すように、突き倒して奪い取る大家の因業さが表現されていればこそ。「お前にあげたんじゃない!おかみさんにあげたんだ!」と叫ぶ若旦那のピュアな心もまた沁みる。

七十を超えてもなお、噺に改良を加える「噺家・柳家権太楼」の了見を見ることのできた高座だった。