【志ん朝七夜】⑤ 志ん朝肝いりの「フタベン」で育ったトップランナーたち(上)

毎月最終火曜日18時から池袋演芸場で落語協会による二ツ目勉強会が開かれている。これは普通のお客様だけでなく、協会の幹部が何名か客席に座って、二ツ目たちの高座を見て、終演後に別途関係者のみ集まって講評をするという勉強会である。例えば今月10月は27日に開催されるが、演者と演目は以下の通りだ。

金原亭馬久「猫怪談」三遊亭粋歌「落語の仮面第1話」林家たま平「茶の湯」春風亭朝之助「秋刀魚火事」柳家小はぜ「蔵前駕籠」

この勉強会がどういう経緯ではじまったのか。長井好弘さんの文章に詳しいので、抜粋する。「落語研究会 古今亭志ん朝名演集」ブックレットより。

柳家喬太郎がまだ前座だったころ、上野・鈴本演芸場で「二ツ目勉強会」(通称「フタベン」)の説明会が開かれた。落語協会所属の二ツ目が交互に出演、それを協会理事が客席の後ろで聴き、終演後に合評会をするという若手育成の試みである。「こんだ(今度)、こういう会を始める。ついちゃ、意見を聞かせてくれ」「出来の良し悪しで、(真打)昇進が決まるんですか?」。場内に張り詰めた空気が流れ、客席に陣取った二ツ目たちからは、かなり突っ込んだ質問も出た。昼席の準備をしていた喬太郎は、「すげえな。普段楽屋でパアパア言っていても、みんなこういうときは真剣なんだ」と感心した。

二ツ目連中が色めき立つのには、理由があった。自分たちの芸を客席で聴く担当理事が、古今亭志ん朝だったからだ。今さらいうまでもなく、若手にとって志ん朝は憧れの存在である。ところが当時は忙しすぎて寄席の出番は少なく、一門にかかわりなく、稽古をつけることもなくなっていた。「普段接することのできない、あの志ん朝師匠に芸を見てもらい、指導までしてもらえる!」。二ツ目たちの目の色が変わるのも、当然のことだった。

志ん朝肝いりの「二ツ目勉強会」は1992年(平成4年)東芝銀座セブンで産声を上げた。以後、池袋演芸場を会場に移して、毎週最終火曜日の夜に開催。2000年に100回を超え、現在も続いている。説明会のときには前座だった喬太郎も、93年に二ツ目に昇進。同年10月にはフタベンの仲間入りを果たした。以上、抜粋。

「二ツ目勉強会」前後に二ツ目になった若手噺家たちを、長井さんは「フタベン第一世代」と呼んでいるが、まさに喬太郎、たい平、彦いち、白鳥といった、現在の落語界の中核を担っている噺家たちが、このフタベンによって育っていった。志ん朝師匠の指導は真剣かつ温かいもので、なかでも新作派の繰り出す新作落語に対して、一生懸命に耳を傾け、アドバイスをしているところに物凄い価値があるように思う。二ツ目だった彦いち師匠のエピソードに、その一端を垣間見ることができる。再び「落語研究会 古今亭志ん朝名演集」ブックレットより。

志ん朝をもっとも悩ませた彦いち作品が、他人に歯を磨かれる苦痛を描いた異色作「歯磨き討ち」(94年2月口演)である。「噺をこしらえるのは偉いよ。俺にはできないもん。でも、そっちの新作、奇をてらうのと、斬新なのとは違うぞ。切り口の問題だよ」。そう言いながら、志ん朝は何かしきりに考え込んでいた。

翌三月の二ツ目勉強会には、喬太郎が自作の「喜劇駅前結社」を口演した。喬太郎自身が「破綻のあり無理やりな噺」と言うほどの実験作だけに、論評らしい論評はなかったが、志ん朝はこのとき、前月の会でも奇妙な新作を聞かされたことを思い出したらしい。「こないだ、木久ちゃん(林家木久扇)とこの弟子の、彦いち。『歯磨き』とかいう新作を聴いて思ったんだけど、先生に歯を磨かれるとき、やめてくれ、やめてくれって、こういう形でさ・・・」。あとは延々、仕方噺が続き、ついに志ん朝は「歯磨き討ち」を一席語り終えてしまった。

「とまあ、こういうふうにやればって、彦いちに言っといて」。池袋演芸場の狭い楽屋、自分のすぐ前で演じられる志ん朝の“名演”に、喬太郎は圧倒されるばかりだった。「名人がやると、こういう噺になるのか!」。彦いちに志ん朝からのアドバイスを伝えた後も興奮収まらぬ喬太郎は、楽屋の若手を誰彼かまわず捕まえては「志ん朝師匠の『歯磨き討ち』聴いたことある?俺は聴いたんだよ」と吹聴。噺のマクラでも自慢しまくって、本来の演者であるのに、志ん朝の直接指導を受けられなかった彦いちを、大いに悔しがらせた。

今は古典、新作を絶妙なバランスで演じ分けている喬太郎も、二ツ目勉強会では、意識的に新作をかけていた。「初めは自信作をぶつけて評価してほしいとか、あえて不得意なものをやって直してもらおうとか考えていたけど、途中からはもう『こんな新作、作りました』と言うだけ。とにかく志ん朝師匠の俺の新作を聴いてもらうんだとしか考えませんでした」。

数ある喬太郎作品の中で、志ん朝は「一日署長」が印象に残ったようだ。喬太郎は97年2月の二ツ目勉強会で「一日署長」を口演した後、同年6月上席の夜の部でも、クイツキ(後半の一番手)で池袋の定席でも「一日署長」を演じた。喬太郎が楽屋に戻ったとき、中入り前に志ん朝がぶらりと楽屋に入ってきた。ネタ帳を見ながら、喬太郎に声をかける。「きょうは誰を犯人にしたんだい?」「志ん次(のちの志ん馬)兄さんです」。志ん朝は「当日の出演者が屋台船ジャックの犯人になる」という“お約束”も、ちゃんと覚えていたのだ。以上、抜粋。

志ん朝師匠という噺家にとって神様的な存在が、いかにありがたいことだったか。喬太郎師匠の思い出からよく伝わってくる。フタベンと言えば、現在の白鳥師匠の逸話も有名なところだ。以下、抜粋。

「お前の噺はわからない。お前の芸を見て客が笑ってる。それがわからない。だから何も言わない。でもね、あそこのやり方は違うんじゃないって、そういうことは言えるんだ」。志ん朝がこんなことを言いだしたのは、95年7月の池袋演芸場。新潟時代の白鳥が「大工調べ」を思わせる長編新作「かわうそ島の花嫁さん」を演じたときの合評会である。

「バーのカウンターにロシア人がいて、その奥におかみさんがいる。あのときの会話、カミシモが逆だろ」。カミシモとは、演者が会話の際などに、登場人物を語り分けるテクニック。上手から下手を向けば大家、旦那などの目上、格上の人物を表現し、その逆なら店子や使用人などを表すことができる。この話術の基本ともいうべきカミシモの存在を、白鳥はこのとき、初めて知ったのだという。「カミシモって何ですか?」「お前、カミシモ知らないの?」「知りません」「ぬうちゃん(白鳥の師匠、三遊亭円丈のこと。二ツ目のとき、「ぬう生」を名乗っていた)は教えてないの?」。

白鳥に言わせれば「うちの師匠は技術より観念的な教え方をする人で、『海の向こうのお母さんに聞こえるように声を出せ』なんて言うから、その頃は高座の正面しか見ていなかった」ということらしい。とにかく知らないものはしようがない。「歌舞伎は知らないの?」「見たことないです」「しょうがないな。じゃあ、このおしぼりを縦に置いて、これが花道としよう」「はい…」。歌舞伎の舞台構造から話を始めて約30分。合評会はほっぽらかしに、志ん朝のカミシモ指導が続いた。「これでわかったか」「でも師匠、面倒くさいから、勝手にやってもいいですか?」「バカヤロー!オレが教えてやっているのに」。以上、抜粋。

白鳥師匠は現在、“おおよそ”カミシモを演じ分けている。このエピソードからわかるのは、志ん朝師匠がいかに後進の育成に真剣だったかということである。優しくて丁寧。権太楼師匠の厳しい論評に対し、「権ちゃんの言っていることは正しい。でも、この子たちに今、それを言ってもわからないから」と、欠点を修正しやすいような指摘をしたという。「と、おじさんは思うんだけど」と、自分のことを「おじさん」と言い、けして「天下の志ん朝でござい」と、ぶらないところが、お人柄なのだと思う。

最後に、「落語研究会 古今亭志ん朝名演集」ブックレットより長井好弘さんの文章を抜粋し、締めたい。

2001年10月1日。志ん朝は旅立った。その日、喬太郎の出番は、池袋演芸場の夜の部だった。楽屋には、師匠のさん喬もいた。一門に関係なく、楽屋みんなが肩を落とし、うつむいていた。終演後、トリの三遊亭歌武蔵と、出演者、寄席尾スタッフら4人で台湾屋台へ行った。

「生ビール五つ!」「四人でしょ」「これは陰膳」「クサいな!」

「死んじゃった」とボロボロ泣く仲間を眺めながら、結局、歌武蔵の家で朝まで飲んだ。

「みんな、(志ん朝の死によって)一つの時代が終わったというけど、そうじゃない。来るべき時代が来なかったんです」と喬太郎が言う。(中略)

新宿末廣亭は真打昇進披露の初日でもあった。新真打は柳家禽太夫、入船亭扇治、三遊亭白鳥、橘家文左衛門、三遊亭萬窓、林家きく姫、柳家三太楼(現・三遊亭遊雀)、柳家一琴、古今亭駿菊、金原亭馬遊の10人。いずれも90年前後に二ツ目になり、池袋の高座で火花を散らしたフタベン第一世代の精鋭たちだ。初日にもかかわらず、この夜の打ち上げはなかった。真打の晴れ姿を志ん朝に見てもらうという夢はかなわなかった。

だが、古今亭駿菊は言う。「志ん朝師匠は、みんなに思い出になるような声のかけ方をしていた」。

フタベン世代の噺家の胸の中には、今も志ん朝が生きている。