義理と人情がたっぷりの浪花節 それを唸る浪曲師も人情味に溢れている 玉川太福

ご自宅寄席で「玉川太福独演会」(2020・06・27)、ネット配信で「文蔵組落語会」(06・29)、木馬亭で「玉川太福月例独演会」(07・04)を観ました。

4月以降、ようやく色々な浪曲を聴くことができるようになり、たっぷりと義理と人情の世界に浸かって、人間っていいなぁと思った。生きる勇気が湧く。と同時に、それを唸る浪曲師さんも義理と人情に厚い人が多いなぁと感じる。さらに、生きる勇気が湧く。人間関係の希薄さが叫ばれて久しいけれど、半世紀以上生きていると、やっぱり義理と人情に助けられることは多く、まだまだ世の中は棄てたもんじゃないなぁと思う。それは今の若い人たちにも共感してもらえるものがあるのではないか。今のちょっとした浪曲ブームにその光を感じている。

玉川太福さんは心の温かい人だ。そして、優しく包み込むような懐の大きさがある。それは高座を観て、聴けば、誰もが理解してくれると思う。数年前に職場の若い女性が「わたし、太福さんが大好きなんです」と僕に言ってきたときの笑顔は今でも忘れられない。その表情は、浪曲はもちろん、その人柄含めてという意味合いの笑顔であると確信するものだった。

ご自宅寄席配信で聴いたのは「悲しみは埼玉に向けて」(三遊亭円丈作品)と「茶碗屋敷」の二席。「茶碗屋敷」は落語の「井戸の茶碗」よりも圧倒的に人情味に溢れている。屑屋の与兵衛は20文で買った仏像を200文で売りつけ、儲けを全部自分の懐にしまう、ちょっと小狡い男として登場し、話の中心人物ではない。主役は仏像を屑屋から買った細川の家来の吉田武左衛門だ。仏像から出た50両を求めた覚えはないから、と自ら元の持ち主である高木左太夫の家を訪ね、返金をめぐって吉田・高木両者が押し問答になるストーリーだ。

高木の貧乏暮らしを知っている大家の仲裁で、50両は高木に返金。そのかわりに何かを吉田に御礼として渡すことになるが、高木はその価値がわかっている茶碗をあえて吉田に渡す。それを吉田の友人の山崎勇斎が朝鮮出兵にまつわる非常に価値の高い国宝級の茶碗であると見抜き、細川の殿様に献上。殿様は吉田に500石の加増を言い渡すが、吉田はそれよりも浪人である高木を召し抱えてくれと懇願して、高木父娘を貧困から救うという実にいい人情噺だ。太福さんが唸ると、その人柄ゆえに泣けてしまう。

文蔵組落語会では「地べたの二人~湯船の二人」と「阿武松緑之助」の二席。これまた落語の「阿武松」に負けず劣らず人情味あふれる浪曲に脚色されている。能登から出てきた長吉は武隈部屋に入るところまでは一緒だが、大飯食らいゆえに破門になるところをあまり強調しない。実際、大飯食らいなのだが、部屋の米の減りが早くておかみさんが文句を言ったりしない。武隈親方も経済的理由ではなく、「そんなに飯ばかり食う奴は出世しない」とやんわりと破門を言い渡す。あまり悪者にしない。

川崎の宿(中山道の板橋ではない)の立花屋主人は、泣きながらおまんまを食い続ける長吉から理由を訊き、すぐに錣山親方を紹介する。主人は「米を一日一俵贈る」など言わず、ただ錣山に頼むだけ。それでも、黙って錣山は長吉の身体を見て、将来性を感じ引き取る。「武隈親方は了見違いをしている」という否定をしない。ただ、黙って部屋に受け入れる。親方の懐の大きさ、寛大さを感じる。その方がより人情味あふれる浪曲になる。錣山親方と太福さんの優しい人柄が重なって見えた。

月例独演会は「明ちゃん」「お民の度胸」「石松の最期」の三席。「お民の度胸」はよく掛かる演題だが、いつも「え!この後、どうなるの?!」で終わってしまう。今回は中入りをはさんで、その続きである「石松の最期」を唸った。

お民の「石松はいないよ!疑うんだったら、家探ししてごらん。そのかわり、それでいなかったら、ただおかないよ!」という啖呵で終わったあとが気になるわけだが、都鳥一家はリスク回避で一旦は戻るのだ。押し入れから出てくる、傷だらけの石松。石松は「これ以上は迷惑をかけられない」と、止める二人を振りきって、刀を杖に外へ出る。そして、都鳥一家と立ち回りをしてズタズタにされた閻魔堂に再び行き、腰を据え、痛みに顔をしかめる。そこへ周囲を巡回していた都鳥一家がやってくる。石松は閻魔堂の裏に逃げ、息をひそめるが。

連中の「逃げ足だけは早いな。石松は卑怯だ」の言葉にカチンときた石松。「畜生!ここで斬られて死ぬようなら、持って生まれた寿命だ!」と、彼らの前に。「待っていた!これだけ強かったというところを見せてやる!」。だが、気持ちとは裏腹に、石松に体力は残っていない。四十三太刀、ズタズタに斬られ、石松は最期を遂げる。

最後まで任侠の道を貫いた男の美学。義理と人情に生きた男のストーリーに酔いしれた。