“トンガリの正蔵”のスピリッツを次世代に伝える 「彦六ばなし」林家正雀

YouTubeで「彦六ばなし」(2020・05・26)、「すずめのおやど」第十四夜から第二十三夜(05・12~29)を観ました。

コロナ禍によって、林家正雀師匠が4月29日からほぼ毎日、一席ずつ落語を配信していることは、5月11日のブログでご紹介しましたが、その後もコツコツと配信を続けていらっしゃいます。また、5月は師匠・彦六の誕生月(5月16日生まれ)ということで、「彦六ばなし」と称して、弟子の彦星さんが彦三と名前を改めて5月21日から二ツ目に昇進したお祝いも兼ねて、生配信が実施されました。その内容はあまり今では演り手の少ない彦六師匠ゆかりの二席たっぷりと師匠の思い出話、また彦三さんの落ち着いた高座も拝見できて、とても充実した配信でした。

正雀師匠がどれほど、八代目正蔵師匠(のちに彦六)、いわゆる稲荷町に惚れこんでいたか。2003年刊行の林家正雀著「増補 師匠の懐中時計」から、抜粋。

山梨県立都留高校に入ると落語研究会、いわゆるオチケンですね、それをこしらえたんです。ちょうどその頃だったと思います、師匠正蔵の噺を初めて聴いたのは。TBSテレビの番組で、タイトルは確か「お待ちかね名作寄席」っていってました。国立劇場の小劇場で開かれる「落語研究会」の中継録画の番組で、タイトルは変わりましたけど、つい最近まで時々夜中にやっていました(現在も放送中)。そこで長谷川伸先生作の「旅の里扶持」という噺を演ったんです。これを見て、アァ、こういういい噺もあるんだなァと思いましてね、ずいぶん強く印象に残ったんです。(中略)

日大のオチケンの顧問は山田螢徹先生ですが、この先生が三遊亭圓朝の研究家として著名な永井啓夫先生と親しくしていらしゃっいまして、永井先生は正蔵師匠とたいへん懇意にされているという話は、何度かうかがっていたんです。当時、私にとって林家正蔵というと、テレビやラジオなんかでは聴いていたんですが、生の噺を実際に聞いてみようと思いまして、寄席に行ったり、ホールに行ったりして、だんだん師匠を追っかけるようになりました。

そこで、一度道具をかざった芝居噺を見てみたいと思っていたのですが、なかなか折りがなかったんです。そうしたところ、下谷の宋雲院というお寺で見ることが出来たんです。その頃師匠は、上野の本牧亭で隔月に一度、正蔵会という独演会を開いていまして、私もちょくちょく聞きに行っていたんですが、昭和47年に本牧亭が改築することになって、宋雲院に会場が移っていました。48年の春、そこで初めて道具入りの芝居噺を見たんです。「双蝶々」でした。

このときの「双蝶々」は二回続きでして、先に(中)の「権九郎殺し」のところをやって、次の回が(下)の「雪の子別れ」でした。2回とも道具をかざってですから、もう芝居好きとしてはたまらなかったですね。人情噺であって、しかもい鳴物が入っての立ち回りがあり、その上、雪まで降らせるので、ゾウゾクするほど感激しました。入門するならば、この師匠だと思ったんです。以上、抜粋。

で、この日の配信プログラムに、思い出の長谷川伸先生の作品が!

正雀「毛氈芝居」彦三「蟇の油」正雀「旅の里扶持」(作・長谷川伸)

「毛氈芝居」、江戸の芝居に興味を持った東北の大名が、是非、招いて領民にも見せてやりたいと所望し、猿若町の中村座一行が喜んで引き受け、「みちのく中村座」の看板をさげて興行を打ったときの、見物したい田舎百姓たちでいっぱいになった小屋のにぎわい、そしてお殿様の微笑ましい勘違い。なんとも、ほんわかした、楽しい噺だ。

そして、「旅の里扶持」。三代目正蔵の出世譚で、もちろん殆どがフィクションだが、とても良い人情噺だなあ、と思いました。長谷川伸先生は最初から八代目の稲荷町のために作った噺ではなく、「正蔵」が出てくる噺なので、八代目に「あげるよ」とおっしゃったそうで、講談の先生がこの噺をやりたいと頼んできたときに、八代目は「台本というのは、貸してしまうと返ってこないのが常。だったら」と、一晩で書き移し、それですっかり覚えてしまったそう。60代のときだそうだ。その後、一生懸命に取り組んだ作品だと正雀師匠がおしゃっていた。以下、粗筋。

師匠・正蔵をしくじった正橋は上州前橋へ。無一文で宿屋にも泊まれない。表札に「江戸家駒吉 蝶々家とんぼ」とある家を見つけ、「芸人と言えば、泊めてくれるのでは」と頼む。ところが、この芸人夫婦は明朝、この家を出ないといけない事情があると言う。酒を酌み交わし、話を聞くと、女房は日本橋横山町の鼈甲問屋の跡取り娘、亭主は出入りの職人。駆け落ちでここまできたが、世話になった呉服屋に不義理してしまい、天狗連だが、女房のおこまは新内ができるので、夫婦で旅をしながら流しで稼ぐという。では、自分は林家正橋という噺家なので、一座に加えてくれと頼む。

本庄の安宿で、寝酒をやって寝込んでいると、突然、おこまに正橋は起こされる。亭主のとんぼ師匠が逃げたという。わけがわからない。よくよく事情を訊く。前橋では呉服屋の隠居が、この貧乏芸人夫婦に赤ん坊が生まれても面倒をみてくれていた。その隠居が亡くなってからのこと、呉服屋から1両2分が紛失した。亭主のとんぼに「盗んだのでは」という疑いがかかる。嘘をつき倒して逃げた。おこまの告白に、正橋は「金を返しにいったんでは?そんなことをするような人には見えない」と言う。だが、落ち込むおこまに励ましだけでは、変な了見をおこされそうだ。正橋は、「新内がある。私もかじったことがある。一緒に流して稼ごう!」

そして、正気を取り戻したおこまは正橋と一緒に、赤ん坊を育てながら、日々の暮らしに困らない金を稼げるように。だが、ある日。おこまが「身体がすぐれない。とても起きられない。暮れ方になったら流しにでるから」という。正橋は「疲れが出たのでしょう。私が独りで流して稼ぎますよ。心配しないで休んでください」と言って、外に出る。縄暖簾の店を一軒、一軒訪ね、小噺をやり、投げ銭を求めるが、「出てけ!」と追い出されるばかりで、一文にもならない。翌朝、宿屋の主が「三里先の勅使河原村の大光寺の住職が褒めていた。是非、来ていただき、檀家に落語を聴かせたい、一分出すと言っている」と正橋に話す。嬉しくなって、おこまに報告。「一分あれば年が越せる。餅も買えるし、薬も買える」「逃げるんじゃあ?」「そんなことはない。必ず帰ってくるから」。

勅使河原村で落語を披露した正橋。「蒟蒻問答」と「業平文治」の続きモノの抜き読み。これが大好評で、「業平文治」の続きが聴きたい、もう一晩泊まってくれ、今度は二分出す、と頼まれ、翌日は「業平文治」の続きと「野ざらし」を演った。それで、おこまの喜ぶ顔が見たいと戻ると…。宿屋の女将が待っていて、「遅かった。おこまさんは、今朝、息を引き取った。正橋はまだか、まだか、と言いながら」と言う。嘆く正橋。「捨てられたが、拾ってもらえた。この恩は死んでも忘れない、と言い遺していたよ」「儚い縁だった…」。困ったのは遺された赤ん坊。幸い、里親が見つかり、正橋は里扶持一貫を渡し、その後も里扶持を毎月送った。

その後、正橋は江戸へ戻り、師匠・正蔵の詫びも叶う。そして、三代目林家正蔵を襲名した。上州の高崎に弟子の正吉を連れて旅の仕事に行く途中、熊谷での泊まりがあった。途中の本庄の宿には覚えがある。里扶持は三か月で滞ってしまったことが気にかかっている。あの子に会いたい。おこまの仏にお線香をあげたい。御礼も言いたい。と、「正橋さんでは?」と声がかかった。「この宿では皆があなたのことを知っている。あの子は荒物屋の養女になったよ」と言われた。その荒物屋を訪ねる三代目正蔵。その女の子は正橋の正をとって「お正ちゃん」と名付けらていた。「おじさんは、もしや、江戸の噺家のおじさんではありませんか?」「そうですよ。会いに来ました」「一度、お目にかかりたいと思っていました。江戸で活躍して、お名前も変わったことも存じています。可愛がってもらい、ありがとうございました。一度、御礼を言いたかったんです。やっと会えました」。

「正の字を名前につけてくれたんだね。嬉しいよ」。正蔵は涙を拭きながら、彼女に言う。「立派になったね。おっかさんに会いたくなったら、鏡をご覧。笑うんだ。そっくりだから。いい子になんなすった」。その晩は荒物屋の主人がもてなし、翌朝を迎える。「日本晴れだ。この街道は、おこまさんと二人で流して歩いた」。♪四谷で初めて遭うたとき 好いたらしいと思うたは 因果の縁の糸車~ 涙にむせぶ正蔵。正吉が訊く。「惚れていなさったんすね。なぜ一緒にならなかったんですか」「相手は新内。さわりがある」。見事!泣いてしまった!

2003年刊行の林家正雀著「増補 師匠の懐中時計」(うなぎ書房)から、抜粋。

「噺は八分で演らなくてはならない」とも申しておりました。役者さんは舞台で本当に涙を流して演技する場合があります。これは一人の人物に扮して、その人間を描写するのですから自然と涙が出てくるのでしょう。それに、そこまで気持ちを高めていかなければ名演技とはよばれないのかも知れません。しかし、「噺家は違う、高座で涙を流すものじゃねえ」と申しておりました。噺家は何人もの人物を一人で描かなければなりません。それを演じ分けるところが噺家の腕であって、噺の面白さだとも言っておりました。

つまり、一人の人物が本当に涙を流して泣いてしまうと、他の人物に替わるのが難しくなってしまうんです。登場人物が全員泣くという噺は少ないですし、仮にそういう場合でも本当に泣いてしまうと地に返っても泣き声で喋ることになってしまいます。これでは噺の面白さが半減してしまうのです。「噺は八分で演る」というのは、人物を演じる場合に目一杯に感情を入れずに、少し自分(演者自身)を残しておきなさいという教えです。そうしておかないと噺を巧みに操ることは出来ないのです。以上、抜粋。

まさに、今回の配信の正雀師匠の「旅の里扶持」は、その「八分」で演っていたからこそ、僕の心に響いたのではないかと思う。

八代目の逸話は多い。毎朝7合の水を飲む、30分体操をする、タクシーに乗らずに地下鉄を利用し、エレベーターやエスカレーターではなく階段を昇り降りする、独自の健康法。寄席に通うために定期券を購入したのだから、寄席以外に行くときは切符を買い、定期を使わない。改札を通るときも、駅員の目の前に定期券を示し、「眼の悪い人がいたら困るだろう」。主義を貫く。けじめをつける。几帳面。すごい。

嘘をついたら駄目だ、嘘をついたら破門だと言われたそうだ。正雀師匠はきちんと守った。ある日、勝手口から師匠の家に入ると、長電話が嫌いな師匠が珍しく、受話器を持って話し込んでいる。優しい声で。ははぁ、相手はご婦人だなぁ。そこに、おかみさんが帰ってきた。受話器を置く。「誰と電話していたの?」「今、落語協会の事務員さんと長い話になってねぇ」(笑)。

再び、2003年刊行の林家正雀著「増補 師匠の懐中時計」(うなぎ書房)から、抜粋。

師匠の脇に長火鉢があって、いつもお湯が沸いています。向こう側におかみさんが座っていて、これだけでいかにも噺家の住まいだと思わせましたが、ときには師匠が長火鉢で焙ったくさやの干物を丁寧にほぐして、一番おいしそうなところを小皿に盛っておかみさんに渡します。「はばかりさま」と言っておかみさんが銅壺で燗したお酒をコップに注いで、「旦那どうぞ」と勧めます。新派の芝居なら、大向こうから「ご両人」と声がかかるところです。これも長火鉢だから絵になりますが、ガスコンロではそうはいきません。

師匠のコーヒー通は有名でしたが、お茶も趣味の一つでして、この銅壺で沸かしたお湯でお茶を点てたものでした。お点前をする師匠は高座で噺をするときと同じように、上品でしかも威厳があって、ちょっと近寄りがたいような気がしました。師匠の「大仏餅」や「紫壇楼古木」が名品であったのは、こうした暮らしぶりに裏打ちされていたからだと思います。とりわけ「紫壇楼」で、「はおりゃァーきてぇるー」と言う古木の精神は、正に師匠のそれであったと思います。以上、抜粋。

「トンガリ」と言われていた部分は一面であって、江戸前というか粋を大切にした師匠であり、洒落を心得て人間的で優しい人柄であったことが正雀師匠の著書を読んだり、こうした高座の思い出話から垣間見える。夏の協会の成田での寄り合い。前座は余興を披露しなければならない。当時、繁蔵だった前座の正雀師匠は長編歌謡浪曲「俵星玄蕃」をやった。長い。空気が読めていない。突然、正蔵師匠が「いいかげんにしやがれ!こんな親不孝な声を張り上げて、皆さん、しすみません」と詫びをして、「代わりに、私が余興をします」。即興狂言。警官役になってパトロールしているという体。「この家は新婚夫婦だな。中で何をしているんだ!けしからん!昼間からあんなことして!」とセリフを言って、「やるまいぞー、やるまいぞー」と下がっていった。翌日、繁蔵が師匠に詫びに行くと、「新宿の旦那からご祝儀をいただいたよ」と上機嫌。しくじらずにすんだぁ、と胸を撫でおろしたと。

正雀師匠のYouTube「すずめのおやど」の配信は続いています。

第十四夜から第二十三夜までのラインナップ。

「一人酒盛」「お血脈」「不孝者」「紙入れ」「一門笛」「親子茶屋」「豊竹屋」「稲川」「子は鎹」「湯屋番」。

五十夜まではやりたい!とおっしゃっています。第一夜からすべてアーカイブで観ることができますので、是非!

では、最後も2003年刊行の林家正雀著「増補 師匠の懐中時計」(うなぎ書房)から、抜粋で締めくくりたいと思います。

昭和56年11月7日の日本橋・たいめいけんで演った「一眼国」が最後の高座となり、翌57年の1月29日に逝ってしまいました。数えの八十八でした。師匠の娘さんから、師匠の形見をいくつかいただきました。そのうちの一つが懐中時計です。師匠はこの時計を大切にしていました。(中略)

普段の外出時は腕時計をしていましたので、師匠はこの懐中時計を持ち歩くことは余りありませんでした。これは飾りで置いてあるのかなァと思っていたところ、夏場になり、寄席で怪談噺を勤めているあいだは、この懐中時計の出番になったのです。はて、これは何かわけがありそうなことと気になっていて、お供でその日は師匠がごくごくご機嫌でしたので、そのわけを伺ったのでした。「それじゃァ、話してやるよ。いいかい、炎天下を腕時計をして歩いてみな、たちまちに時計の跡がつうじゃァねえか、こりゃァ噺の邪魔にならァ。噺の中の人物がまさか腕時計をしちゃァいねえ。わかったか」と語ってくれたのです。これを聞き、「師匠は噺をいちばん大事に暮らしているんだなァ」と、ひどく感心をいたしました。

この懐中時計にはもう一つの役目がありました。その使い道を知るにつけ、師匠がこの時計をどんなに愛用していたかがわかったのです。噺の収録(テレビ、ラジオ、レコードなど)の折に、与えられた時間内に収めるためのお稽古のはこの時計が手放せなかったようなのです。収録前の晩には二階で、時計を前にして、その噺を浚っていたのです。お客さんのいないスタジオ録音には、この時計を手元に置いてもいました。してみますと、この懐中時計が、師匠の一番いい噺をいくつも聞いていたんだと思えてきて、ますます大切なものに思われるのです。以上、抜粋。

トンガリの八代正蔵。来年が50回忌だ。稲荷町が遺した目に見えない財産を、正雀師匠から次の世代へ引き継ぐことは、落語界の未来を見据えて必要なことに思う。そのある一つの形が「彦六ばなし」なのかもしれません。