柳家権太楼・玉川太福・神田伯山の会、そしてパルコプロデュース「メアリー・スチュアート」

柳家権太楼・玉川太福・神田伯山の会に行きました。
「寛永宮本武蔵伝 狼退治」神田青之丞/「出世浄瑠璃」神田伯山/「阿武松緑之助」玉川太福・玉川みね子/中入り/鼎談 権太楼・太福・伯山/「短命」柳家権太楼
伯山先生。難しいイメージの講談を身近で判りやすくしようと心掛けているのが素晴らしい。読み物の時代設定における浄瑠璃は、現代でいうとポップス音楽で、「いうなれば、あいみょん」と位置付けたのは凄いなあと思った。松平丹波守がつい口を滑らせて、3年前に松平伊賀守の家来が浄瑠璃を披露したことを喋りそうになり、猪退治と何とか誤魔化した。これを受けて、尾上久蔵が伊賀守の前で即興で嘘の武勇伝を言い立てるところ、実に見事。笑いも交えながら、講談の魅力を前面に押し出す演出は、さすが講談界の牽引役と頭が下がる。
太福先生。大飯食らいは出世しないと、武隈部屋を破門になった長吉は故郷能登にも帰れず、このまま死んでしまおうと思う。だが、その前に親方から預かった一両でお腹いっぱい、おまんまを食べようと川崎宿の橘屋に入って、泣きながら三升をペロリと食べるところ、滑稽味を打ち出しながら丁寧に描いているのが印象的。橘家主人が錣山部屋を紹介して、出世をして、宿敵の武隈と対戦するところは、その分あっさりしている。人情というより、滑稽に重点を置いた演出は太福先生らしい。
権太楼師匠。「短命」はさすが、爆笑王の貫禄。ご病気をされて心配な時期もあったが、見事に元気な姿で高座復帰され、権太楼節を聴かせてくれ、嬉しい。そして、鼎談では柳家権太楼という噺家の愛情溢れる側面のお話が聞けて良かった。特に伯山先生の直球の質問に対して、話を逸らすことなく、真正面から受け止めて、真摯に答える姿に噺家としての矜持を見たような思いがした。
パルコプロデュース「メアリー・スチュアート」を観ました。原作:フリードリヒ・シラー、翻案:ロバート・アイク、翻訳:小田島則子、演出:栗山民也。
舞台は、16世紀末のイングランド。主人公は、生まれながらにして王位が約束され、三度の結婚を繰り返すなど官能の赴くまま自由奔放な生活を送ってきたスコットランド女王のメアリー・スチュアート(宮沢りえ)。そして、ヘンリー8世の庶子として不遇な幼年時代を過ごし、女王の座に就くや国家に忠誠を誓い、自らに厳しい義務を課し、国家の利益のみを考えてきたイングランド女王のエリザベス1世(若村麻由美)。
エリザベスへの謀反という簾で死刑判決を受け、幽閉された牢の中からの脱出を画策するメアリーと、メアリーを救うべきか断罪するかで揺れ動くエリザベスとの対比で物語ははじまる。二人の女王の直接対面という山場では、マリアの慎み深い言葉に始まった会話が、次第に互いの憎しみを掻き立て、最後には現実にはありえないような激しい言葉のぶつかり合いへと発展する。この緊迫する場面を頂点として、好転するかに見えた筋が一転、悲劇的結末へと収斂していく…。
演出の栗山民也さんはパンフレットの中で「今に繋ぐ、その声」と題して、「古典においてそうなのだが、その過去の古い時代をそのまま写し取ったような『時代劇』を創るつもりはない。現在の目線からのフィルターを通して、その作品をもう一度丹念に見つめることで、それは『現代劇』としての呼吸を始めるだろう」と前置きして、こう書いている。
ちょっと前の我が国の突然の選挙も、1週間前からの大国によるミサイル爆撃もそうだが「力を持つことが正義」という、悪魔的で秩序を失った、とてもおかしな方向へと世界は向かっているようだ。わたしたちは、なぜ過去から学ぼうとしないのか。昨日の本読みで妙に体に残っている言葉は、その「正義」という一語。簡単な構図で階級社会の登場人物の善悪を描くのではなく、16世紀のその絶対的なヒエラルキーの中で、忠実であらねばならないその全ての関係性を見つけねばならない。だから、皆それぞれが忠実に自らを「正義」だと信じ、行動するのだ。アイクは、執拗に歴史に刻まれた物語から、現在に起こるいくつもの問題を強い力でわたしたちの前に引きずり出す。まるで生きようとして生きられなかった人々の魂を、作品の上で登場人物として再生し、言葉を、そして全身を与える。だからこそ、歴史の中の亡霊の語る言葉のように、舞台の上にその多くの言葉が熱く浮遊する何者かの声のように、響いてくるのだ。以上、抜粋。
日本人にとって、イングランドとスコットランドの対立や、カトリックとプロテスタントの対立を理解することはなかなか難しい。だが、こうしてシラーの原作をアイクが翻案した意味について、栗山さんに解説されると、現代に生きる日本の私たちにも、この「メアリー・スチュアート」のメッセージのようなものが朧げながら見えたような気がした。

