津の守講談会 一龍斎貞心「石川一夢」一龍斎貞花「左甚五郎 生人形」、そして表扇家 入船亭扇橋「唐茄子屋政談」

津の守講談会初日に行きました。今月は「八十歳トリオの競演会」と題して、3日間、宝井琴梅先生、一龍斎貞花先生、一龍斎貞心先生が出演する企画であったが、琴梅先生が残念ながら体調不良で休演、宝井琴桜先生が代演することになった。

「島田虎之助」神田はるまき/「一心太助 旗本との喧嘩」田辺凌々/「青葉の笛」田辺凌天/「石川一夢」一龍斎貞心/中入り/「曲馬団の女」宝井琴桜/

貞心先生の「石川一夢」。一夢が十八番にしている「佐倉義民伝」に関して、冒頭に入れるエピソードが良い。東両国の五郎兵衛席で読んだときに、数人の男が高座の後で一夢に話しかけた。彼らは下総の在の百姓で、宗五郎のことを大恩人、神様のように思っているという。一夢の高座は素晴らしかったが、一つだけお願いがあるという。宗五郎が処刑される場面で、「多くの見物人」と表現しているが、自分たちは念仏を唱えて冥福を祈った、なので「多くの名残を惜しむ人たち」という表現にしてほしいという願いだ。一夢は納得し、「以後はそのように致します」と答えている。一夢が「佐倉義民伝」をいかに大切にしているかが伝わってくる。

一夢が若い男女の身投げを止めたとき、男は笹川五岳という講釈師の息子の芳次郎だった。浅草仲町の富田屋という古着屋に奉公したが、仲働きにお浜と恋仲になった。お浜は二親を早くに亡くし、養父に育てられたが、その養父が強欲で、しばしば無心に来て困っていた。とうとう店の金に手を出してしまい、十両近い額になり、やむにやまれずに心中しようと考えたのだった。

ここで一夢が偉いのは、修業時代に五岳から散々酷い苛めに遭ったにもかかわらず、「あのとき、じっと耐えたからこそ、今の石川一夢がある。五岳は芸の上の恩人だ」と思ったことだ。そして、芳次郎とお浜のために十両を算段してあげようと思う。そして、懇意にしている相生町の質屋、伊勢屋万右衛門に十両を融通してくれないかと頼む。

万右衛門は快く引き受けるが、質入れする形(カタ)が必要だと言って、一夢の「佐倉義民伝」を形にするよう提案する。形(かたち)のないところに値打ちがある。一流の洒落でもある。一夢は伊勢屋に「佐倉義民伝」の点取りを預けて十両を貰い、芳次郎とお浜とともに富田屋に行き、事情を話すと、富田屋も一夢先生が後ろ盾ならと承諾、二人は夫婦となり、通い番頭として働けるようになる。

だが、翌日から一夢は五郎兵衛席で「佐倉義民伝」が読めなくなり、「祐天上人」と「累解脱」でしのいだ。次の寄席は日本橋に翁亭。「早苗鳥伊達聞書」と「天明白浪伝」を読もうとしたが、観客が黙っていない。「佐倉義民伝を読んでくれ!」。一夢は仕方なく仔細を客に説明すると、「請け出せばいい!」と言って、客が次々と金を出し、瞬く間に十両を超す金額が集まったという…。

この評判によって、石川一夢の「佐倉義民伝」は益々評判となって、講釈師としての名声を得たという。素敵な読み物だった。

貞花先生の「生人形」。左甚五郎は、鞘師の源兵衛、仕立て職人の藤助という二人の名人と同じ浅草黒船町の長屋に住んでいた。女遊びは好まなかった甚五郎だが、二人に付き合って吉原に繰り出し、京町二丁目姿屋吉兵衛という見世に上がったときの話である。

甚五郎の相方になったのは、七越花魁。売れっ子ゆえに、あちこちの客の部屋に顔を出して、なかなか甚五郎の部屋に戻ってこない。甚五郎は暇を持て余し、床の間に飾ってあった海老の絵を見て、床板にコツコツと鑿(のみ)で伊勢海老を彫った。七越が戻ってきたときには出来上がっていて、髭が生えた伊勢海老がピクピクとまるで生きているように動くのに驚く。甚五郎は「何の仕掛けもない。魂をこめれば、このように動く」と言うと、七越は「もしかして、寛永寺の水呑みの龍を彫った甚五郎さんでは?嬉しゅうござんす」。

七越は「また来てほしい」と言うと、甚五郎は「自分が納得できるものが出来たら来ます。まだまだ修行中です」。そして愛しい七越のために、甚五郎は二十両の入った紙入れを渡す。すると、七越は紙入れから二十両を抜いて、この伊勢海老の彫物と紙入れだけは預かり、二十両は甚五郎に返す。そして、亡き母の形見である懐に入れる小さな鏡を甚五郎に渡す。「これを私と思ってください。年季が明けたら、主のところに参ります。待っていてください」。この動く伊勢海老は吉原で評判となり、姿屋という屋号を姿海老屋と改めるまでになった。

甚五郎は帰宅しても、七越花魁のことで頭がいっぱいになってしまう。納得のいく彫物ができるまで行かないと約束したのに、甚五郎は姿海老屋を訪ねてしまう。すると、七越花魁は「名の残るようなものを彫り上げるまで来ないと言ったのに…私も会いたい心を堪えて会える日を楽しみに待っていた。わちきの人形を彫って懐に形見の鏡を入れてください。そうすれば、あなたの傍にわちきがいると思える」。甚五郎は「自分が間違っていた」と言って、七越と別れる…というところで、甚五郎は目が覚めた。全ては夢だったのだ。

甚五郎は夢で七越が言っていたように、一世一代の人形を彫る。さらに、仕立屋の藤助に頼んで鯉の瀧昇りの模様の着物を誂えてもらい、人形に着させた。甚五郎はその人形を相手に酒を酌み交わす。さらには口三味線で一緒に踊る。それはまるで生きているようだった…。

七越花魁は無事に年季が明け、本名のおふみとなり、甚五郎の女房となったという…。甚五郎伝には珍しく色恋が絡む、甚五郎の人間味を感じる読み物だった。

「表扇家~入船亭扇橋独演会」に行きました。「我楽多堂」「夢の酒」「唐茄子屋政談」の三席。開口一番は入船亭扇えんさんで「寿限無」だった。

「唐茄子屋政談」。花魁に入れあげて勘当された徳三郎の了見を入れ替えようという叔父夫婦の愛情、その事情を知って田原町で転んだときに唐茄子を粗方売り捌いてくれた見ず知らずの江戸っ子の人情、さらに誓願寺店の貧乏母子を見て居たたまれなくなり、売り溜めをすべてあげてしまった徳三郎の優しさ。世の中、持ちつ持たれつ助け合いながら暮らしていることの素晴らしさが眼目の人情噺だと思う。

特に唐茄子を売り歩けと命じた叔父さんに対し、徳三郎が「そんな姿を知っている人に見られたら、恥ずかしい。みっともない」と答えてしまったとき。唐茄子の方がみっともないと言う、お前はもう若旦那じゃない、かろうじて人の形をしているだけだ、川へ飛び込んで死んでしまえ!この叔父さんの言葉は、徳三郎は実際に重い荷を担いでフラフラとよろめきながら歩き、石に躓いて転んだときに身に沁みて実感したことだろう。

だが、田原町で粗方売り捌いた後、吉原田圃で売り声の稽古をする徳三郎が吉原で花魁と一緒にいたときのことを思い出す場面は必要だと思う。(ここを省略する噺家さんが散見されるのは嘆かわしい)徳三郎は反省していないのか!と思う向きもあるかもしれないが、人間はそんなに完璧じゃない。そこも含めての人間賛歌ではなかろうか。その点、扇橋師匠はしっかりと吉原田圃の場面を描いていて、とても良かった。

花魁と初めて会ったとき、ぽちゃぽちゃとした笑顔に騙されているとは判っていても、また会いたくなる。年始回りの帰り、親父に叱られると判っていても、立ち寄ってしまい、花魁と寄席鍋をつつく幸せ。「舌の上でシラタキが結ばれました」って、フフフ。これが吉原の魅力なんだろう。花魁が三味線を弾いて、都々逸。夕立のざっと降るほど浮名は立てど、ただの一度も濡れやせぬ。別れがつらいと小声で言えば、締める博多の帯が泣く。吉原の粋な世界の部分は後世にずっと語り継がれてほしいと思う。