【アナザーストーリーズ】三島由紀夫 最後の叫び

NHK―BSで「アナザーストーリーズ 三島由紀夫 最後の叫び」を観ました。
1970年11月25日。作家の三島由紀夫は自衛隊市ヶ谷駐屯地で自衛官に決起の演説をした後、割腹自殺した。当時、6歳だった僕はその日の夕刊の一面に三島が叫んでいる写真とともに記事が掲載されているのを見て、意味が判らないまでも、そのセンセーショナルな報道に驚いたことを覚えている。
番組冒頭で、24歳で文壇にデビューした三島が「平凡パンチ」が企画した「オール日本ミスターダンディ」という読者投票で1位を獲得しているのが興味深かった。ちなみに②三船敏郎③伊丹十三④石原慎太郎⑤加山雄三⑥石原裕次郎⑦西郷輝彦⑧長嶋茂雄⑨市川染五郎(現松本白鷗)⑩北大路欣也。知性と行動力を兼ね備えた三島はジャンルを超えたスーパースターだったのだ。
三島は事件の日、市ヶ谷駐屯地の旧一号館(現在の市ヶ谷記念館)にいる益田兼利東部方面総監の許を楯の会の学生を連れて訪ねた。自衛官だった寺尾克美に「総監が監禁されている」と通報があり、すぐに駆け付けると、三島は寺尾の背後から日本刀で斬り付けた。そして、要求書を叩きつけた。自衛隊員を集合させ、演説を聞かせる。それが叶わぬ場合は総監を殺害し、自決するとあった。
三島は自衛官に向かって叫んだ。どうして自分たちを否定する憲法というものにペコペコするんだ。自衛隊は違憲なんだ。どうしてそこに縛られなきゃいかんのだ。諸君の中に一人でも俺と一緒に起つやつはいないのか。一人もいないのだな。よし。憲法改正のために立ち上がらないと見極めがついた。これで俺の自衛隊に対する夢はなくなったんだ。そう言って、三島は楯の会の森田必勝とともに割腹自殺した。
楯の会は愛国主義の100人で構成された組織。その日も市ヶ谷会館で月に一度の例会が開かれる予定だったが、三島は姿を現さなかった。メンバーは上空を飛ぶ新聞社のヘリコプターの音に気づき、ラジオをつけると三島由紀夫が自衛隊に決起を叫んだ後に自殺したニュースが流れ、「想定外」の驚きを隠せなかったという。
益田総監は記者会見で、「なぜこのようなことをするのかと質問したが、『仕方なかったんだ』と答えていました」。それが三島の最期の言葉だった。
事件の1年半前。世の中はベトナム戦争反対、日米安保反対を謳って学生運動が激しかった。1969年5月13日。東京大学駒場キャンパスで三島由紀夫vs東大全共闘の討論会が開かれた。三島は前年に高度経済成長に浮かれる日本に違和感を持ち、守るべきは経済至上主義の日本ではなく、神の国の天皇陛下を中心とする精神文化の国の日本だと「楯の会」を結成した。
東大900番教室で三島は言った。安田講堂で諸君が立てこもったときに、天皇という言葉を言ったならば、私は喜んで一緒に閉じこもったろう。これはふざけて言っているんじゃない。三島の主張に全共闘側は「あなたの言うことを認めることはできない。ただ、たった一人で出てきた勇気は認める」と言って、学生代表と三島は握手を交わした。元東大全共闘の木村修は「世間は三島を軍国主義扱いしているが、それは違うなと確信した」と証言している。
このとき、三島は後の市ヶ谷駐屯地での行動を予感させることを言っている。私が行動を起こすときは、結局諸君と同じ非合法でやるしかないのだ。非合法で決闘の思想において人をやれば、それは殺人犯だから、そうなったら自分もおまわりさんにつかまらないうちに、自決でも何でもして死にたいと思うのです。
楯の会の目的は左翼勢力から日本を守ること。当時、左翼に非ずんば人に非ずというような世間の空気があり、共産革命を防ぐには民間の防衛組織である「祖国防衛隊」を作る必要があると考えた。
1968年に新宿駅に全国から4500人のデモ隊が集結した「新宿騒乱事件」が起きた。その一年後の10月21日を国際反戦デーと定め、また同じような騒動が起きるのではないかと警察は想定し、厳戒体制を敷いた。もし、自衛隊の出動要請が出れば、警察の敗北となり、憲法改正の声もあがり、道も開けるだろうと三島は考えた。しかし、デモ隊は機動隊によって鎮圧され、自衛隊の出番はなかった。三島の計算は狂った。
市ヶ谷駐屯地での演説にそれが窺える。もはや憲法を守る軍隊になってしまった。自衛隊が20年間、血の涙で待った憲法改正のチャンスはもうこれでないんだ。自衛隊が国軍になる日はない。建軍の本義はない。それは私はもっとも嘆いていたんだ。自衛隊にとって建軍の本義とは何だ。日本を守ること。日本を守るとは何だ。日本を守るとは天皇を中心とする歴史と文化の伝統を守ることである。お前ら、聞け。男一匹が命をかけて諸君に訴えているんだぞ。
三島は軍国主義でも、愛国主義でも、天皇崇拝者でもなく、日本の伝統文化を守るために立ち上がらなくてはいけないとただ純粋に訴えたかっただけなのかもしれない。
三島が市ヶ谷駐屯地に行く前に、手紙を託された男がいる。「サンデー毎日」の記者、徳岡孝夫。もし計画が失敗したときに、「三島は自衛隊を見学中に不慮の死を遂げた」などと隠蔽報道されるのを恐れたために書いた檄文だ。
3年半前に徳岡は三島の自衛隊体験入隊を記事にしたいと接触し、実際に雑誌に掲載された。徳岡は「昭和天皇を罵倒したのは三島だけだ」と言う。三島は天皇の「人間宣言」を堂々と批判した。徳岡がタイのバンコクの特派員だったときには、編集部から「三島がバンコクに滞在している。ノーベル文学賞の最有力候補だ」と、予定談話を取るように指示された。1968年10月、川端康成のノーベル文学賞受賞が決まる。三島は川端の許に祝いに駆け付け、「日本文学が世界に認められたことが嬉しい」とコメントした。だが、徳岡によれば「三島は失望していた。もしノーベル賞を獲っていたら、死んでいなかったかもしれない」と述べている。
三島は二十歳のときに戦地に赴くはずだった。だが、肺浸潤と誤診され、徴兵を逃れた。「仮面の告白」という自伝的小説の中で、自分は軍医に「微熱が続いている」「血痰がある」と嘘を言ったとしている。三島が出兵するはずだった軍隊はフィリピンで全滅。「正直じゃなかった自分が生き残った。この先、充実した人生を生きなければいけない」。いわゆるサバイバーズギルトがあったのではないか。自分は文学で日本に貢献したと言えるのか。小説だけでは物足りない。命がけの行動をしなくてはいけないと考えたのではないか。番組ではそう推測している。
だが、なぜ自決したのか。真相は闇の中だ。だが、その疑問を解くヒントが生前のインタビューに見ることができるという。人間の生命とは不思議なもので、自分のためだけに生きて自分のためだけに死ぬというほど人間は強くない。人間は何か理想なり何かのためということを考えているので、自分のためだけに生きるということはすぐ飽きてしまう。死ぬのも何かのためということが必ず出てくる。それが「大義」というものです。大義のために死ぬことが最も華々しい英雄的な立派な死に方だと思う。
三島が徳岡に託した檄文にはこうある。檄は何卒、何卒、ノーカットで御発表いただきたく存じます。(中略)願ふはひたすら小生らの真意が正しく世間に伝はることであります。
われわれは戦後の日本が経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失い、本を正さずして末に走り、その場しのぎの偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。日本を日本の真姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。
徳岡は三島との約束を果たし、全文を「サンデー毎日」に掲載した。徳岡が言う。「三島の唯一の欠点は静かに老けるということを知らなかった。静かに老いてもっと良いものを書いてくれたら、われわれの老後も豊かなのにと思う」。
三島は生前、こう言っている。僕が死んで五十年か百年たつと、ああ、わかったという人がいるかもしれない。それで構わない。
三島由紀夫というミステリアスなベールに隠された生涯の一端に触れることができた。

