笑二の90分 立川笑二「仲順大主」、そして江戸家猫八襲名3周年記念の会

「笑二の90分~立川笑二蔵出し勉強会」に行きました。「花見の仇討」「花筏」「仲順大主」の三席。ネタ出ししていた「お若伊之助」は間に合わず、残念だった。
「仲順大主」は「ちゅんじゅんふしゅ」と読む。13世紀の琉球に実在した伝説的な豪族の名前で、自分の息子への財産分与に関する伝承「仲順大主の財宝譲り」を基に笑二さんが落語に創作した。沖縄の伝統芸能エイサーの代表的民謡「仲順流り」(ちゅんじゅんながり)はその伝承を題材にしたものだと調べてわかった。
大主は三人の息子の誰に財産を譲るか、悩んだ。そこで一芝居打つ。食べ物が喉に通らず、このままだと死んでしまう、医者が言うには乳を飲めば命を長らえることができる、三人の息子に嫁の乳を飲ませてくれないかと頼む。長男と次男は怒って去ってしまった。だが、三男はこれを受け入れる。だが、嫁の乳を独占して飲むということは、赤ん坊が乳を飲めなくなる。赤ん坊を殺してしまえと大主は残酷にも言う。三男はこれも受け入れ、指示通りに梅の木の根元に乳飲み子を埋めようと、鍬を入れた。すると、そこから金が詰まった甕が出てきた。大主は三人の息子の親への思いを試したのだった。そして、その金のみならず、財産を全て三男に譲ることにする。
この伝承に倣い、旦那は番頭に梅の木に千両箱を埋めさせ、太郎、次郎、三郎に「嫁の乳を飲ませてくれ、そして赤ん坊を殺せ」と言う。しかし、三人とも怒って去ってしまった。このとき、四男の与太郎が現れ、親父の命が助かるなら女房の乳を飲め、赤ん坊の花も可愛いが、ここまで育ててくれたのは親父にお陰と言って、花の命を差し出すと言う。期待していなかった与太郎が親思いであることを知った親父は感激して、全財産を与太郎にやると告げる。だが、与太郎はそんな財産は要らないという。「さっき千両箱を埋める番頭さんの手伝いした」というサゲ。ブラックな終わり方が笑二さんらしくて良いなと思った。
「江戸家猫八襲名3周年記念の会~猫八の上にも3年」に行きました。ゲストは金原亭馬好師匠が「元犬」、春風亭一花さんが「四段目」、開口一番は隅田川わたしさんで「つる」だった。
中入り前の猫八先生は黒紋付の和装で座り高座。物真似は一切せず、初代猫八について詳しく解説したのが、とても興味深かった。猫八を辞書で引くと、普通名詞として紹介されている、と。江戸時代の物乞い、鳴き真似をして銭をもらう。職業として沢山の猫八が全国各地にいた。初代江戸家猫八は当代猫八の曽祖父に当たるが、はじめは歌舞伎役者で、三代目片岡市蔵の弟子で市之助を名乗っていた。だが、白粉の毒に侵されて下半身が不自由になり、廃業。飴売りをしながら「猫八」をやっているところを、寄席芸人にならないかとスカウトされ、江戸家を名乗った。
初代江戸家猫八が最初に寄席に出た物真似芸人と思ったら、そうではなくて、明治半ばに、やはり飴屋から寄席芸人になった東京亭猫八という人がいたそうだ。だから、初代猫八は当初「二代目猫八」と東京亭に敬意を表して名乗っていたという。京橋の小料理屋を営んでいた岡田直吉が火事を出して廃業、新富町に天婦羅屋を出した明治元年に新吉が生まれ、これが初代江戸家猫八である。新吉は奉公に出されたが、奉公が嫌で何度も出戻ってきてしまい、十歳で歌舞伎の世界へ。坂東かつらという名前で子役をしていたが、二十五歳のときに三代目市蔵に入門し、名題下まで出世したが三十歳で役者をやめる。
兄が岡田直次郎と言って、画家・鈴木華邨の弟子で、自分も画家を目指した。岡田桜村、岡田梅村などと名乗った。その後、餡蜜屋を開くも廃業。そして、飴売りをしながら、「猫八」をしているところを、春風亭大与枝の口利きで柳家に世話をしてもらったが、間違って三遊派の小圓朝の弟子となり、落語家となる。立花亭に出演するも、「砂の芸人」(大道芸人)扱いで出演ができなくなり、廃業。改めて三代目小さん門下に入るも、同じ理由で寄席の出演はNGとなり、料亭のお座敷の仕事を世話してもらって暮らしていた。すると、これが大受けで、「あの芸人を呼んでほしい」という声が高まり、大与枝の出身である群馬邑楽郡の侠客、江戸家寅五郎の「江戸家」をもらい、江戸家猫八として寄席出演が叶い、毒舌な即席問答で売れた。
しばらくすると、活動写真の流行に押され、寄席が低迷。猫八は「引退興行」と銘打ち、何と5年も全国を巡業して稼いだという。SNSはおろか、マスコミも発達していない大らかな時代のエピソードだ。猫八人気に便乗し、各地で「関東猫八」やら「宗家猫八」やらを名乗って稼ぐ者が現れるほど。「宗家」とは何事だ!と抗議したら、「そうけ」ではなく「むねや」ですと言われたとか。その弟子の猫三の息子は大阪で「バー猫八」を営業し、米朝師匠も来店したことがあるという。
初代江戸家猫八は昭和7年に65歳で逝去。大与枝の息子が弟子となり、小猫八を名乗っていたので、二代目猫八を襲名した。そして、太平洋戦争後に当代の祖父が三代目猫八を襲名した。初代江戸家猫八伝は一本の講談になりそうである。
馬好師匠と一花さんの夫婦も交えた猫八襲名披露のときの裏話トークの後、「秘蔵映像」が2本上映された。
1本目は当代猫八が三歳のときに父親の小猫先生(当時)と出演したTBSの「オールスター家族そろって歌合戦」。長男真一郎(当代猫八)のほかに、母親と姉も出演していたが、真一郎君がハキハキと「お父さんよりお母さんの方が怖いです」と司会の萩本欽一さんの質問に答えているのが可愛かった。父親の小猫先生が「我が家は親父も含めて、かみさんが強いんです」。それが家族円満の秘訣なのだろう。
2本目はNHK「この人江戸家猫八ショー」。昭和60年2月、当代猫八が七歳のときの映像だ。祖父猫八と父小猫と真一郎君の親子三代で秋の虫の鳴き声を揃って披露している。真一郎君はとても緊張していたそうで、でもしっかりとコオロギを鳴いていた。この後に祖父猫八が言うメッセージが素晴らしい。
やっぱり猫の子は猫でした。陸軍大将になれず、歌舞伎役者となった父の血を受け継ぎ、芝居の役者と寄席芸人の二足の草鞋を履いてやっております。小猫も今、励んでいます。孫の真一郎も、こうして皆様の前で初舞台を踏みました。将来、きっと自分の道を切り拓いてくれるでしょう。初代も喜んでいると思います。私を追い抜いて新しい猫八になってほしい。猫八四代、孫子の代までよろしくお願いいたします。
中入り後に洋装で高座に立った猫八先生はチワワの三本締め、フクロテナガザルの両足のふくらはぎが一遍に攣ったときの叫び声、ゴリラと会話しようと顔真似の努力をしたときの失敗談など独自の話芸で披露した後、こう言った。
私の父は「自分らしい芸をどんどん作れ」と言っていた。先程の映像の中の祖父のメッセージが自分の真ん中に届きました。これからも良い芸を磨いていきたい。
そう言って、江戸家のお家芸の「初春のウグイス」を鳴いて、会を締めた。とても素晴らしい会だった。ありがとうございました!

