立川談寛真打昇進披露パーティー

談吉改メ立川談寛真打昇進披露パーティーに出席しました。
立川談吉さんが3月1日付で真打に昇進し、同時に二代目談寛を名乗った。きょうはその披露目というお祝いの宴である。立川談志最後の直弟子の真打昇進は去年、一般社団法人となった落語立川流にとっても大変におめでたい慶事だ。
ヒルトン東京菊の間。司会は元静岡朝日テレビアナウンサーでBS―TBSコンテンツ編成局統括の村田智啓さんとお笑い芸人のふとっちょ☆カウボーイさん。
談寛師匠が師匠談修に伴われて会場に入場。談修師匠が壇上で挨拶した。私が入門したのは師匠談志が59歳のとき、血気盛んだった。談寛が入門したのは談志が72歳のときで、彼が談志に怒られたところは見たことがない、穏やかだった。入門の三年後に談志は他界したが、その直前に当時の談吉が二ツ目に昇進。談志の訃報の4日後に談吉二ツ目昇進落語会が開かれ、お客様はお悔やみと祝辞を同時に言うという不思議な会になったのを覚えている。
談吉は左談次師匠の弟子となったが、その7年後に左談次師匠も逝去。私が三人目の師匠として談吉を迎えた。周囲は私に「死ぬなよ」と冗談半分に言い、談吉にも「師匠を殺すんじゃないぞ」と笑いながら温かく見守ってくれた。今、こうして談志最後の直弟子が真打に昇進したことで、恩返しできたのかなと思っています。
談寛は古典の腕があると同時に、奇天烈な新作でも才能を発揮している。彼の落語会にこれからもどうぞお運びいただきたい。彼は「4人目の師匠を誰にするか、密かに帳面にリストアップしているそうです。これをデスノートならぬ“弟子ノート”と呼ぶ」と洒落を言って会場を沸かした。
続いて登壇したのは、ダンカンさん。談志の元弟子で、立川談寛を名乗っていた。いわば初代談寛。どんなメッセージを贈るのかなと思ったら、近頃出版された自分の著書と映画のDVD、そして翌日に開催されるトークショーのPRに終始し、いかにもダンカンさんらしいユーモア精神溢れるパフォーマンスが面白かった。
乾杯の音頭は高田文夫先生。最近は「二人のダンカンが存在する」ことに対して説明を求められることが多く、「加勢大周と偽大周と同じと言っている」と笑わせ、二代目談寛は前座時代ずっと談志の傍にいて介護をしていた、「これを介護介護介護のシューリンガンという。これじゃあ寿限無だ」とギャグを飛ばす。頭の回転の速さは衰えることがない。流石である。
演芸評論家の寺脇研先生の祝辞では、「私は映画評論を50年以上しているが、好きな映画は何かと訊かれるのが一番困る」と前置きし、「けれども、好きな落語は誰かと問われれば、迷いなく左談次さんを挙げることができる。ナンバーワンです」。左談次師匠は弟子を取ることを躊躇っていたが、ブラック師匠の弟子だった左平次さんを真打にし、今こうして談吉さんが真打になった。天国の左談次さんはきっと喜んでいるだろうと締めた。
ほかに津軽三味線奏者の北村徹麿さんの演奏、寄席文字の橘右橘師匠による招木の紹介(スポンサーはFK合同会社)、薗田憲一とデキシーキングスによる演奏など。
司会の「スペシャルサプライズゲストです!」という紹介で、松村邦洋さんがビートたけしさんに扮装して登壇。貴乃花、勘三郎、仁鶴、出川哲郎、掛布…とお得意の物真似を披露するが、やや受けで「伯山さんのパーティーと同じ空気になっちゃった」。本当はたけしさんの口癖で、皆が物真似する「ダンカン、馬鹿野郎!」を皆は期待したのかもしれないが、そこはあえて封印したのは、たけしさんへのリスペクトがあったのだと思う。でも、津川雅彦の家康と西田敏行の秀吉で「葵徳川三代」を演じるネタが僕は個人的に面白かった。歴史通の松村さんらしかった。
そして、本日の主役である談寛師匠の挨拶。「談志からは落語の基礎を学び、左談次からは噺家の生き方を教わり、談修はそれらの間違ったところを修正してくれた。これからもよろしくお願いします」。短くてシンプルな挨拶に心がこもっていて、とても良かった。
最後は壇上にきょう出席している談志の直弟子全員が並んだ。壮観だった。そして落語立川流代表の志の輔師匠が挨拶。この中でダンカンさんと修業した唯一の弟子が私です。間に何人かいましたが、皆辞めていきました。談志は談寛(初代)兄貴がいると決まって不機嫌になるので、二人を一緒にしないようにするというのが私の前座修業でした。
「お前らは何も役に立たない。近所の庭みたいにツツジでも植えてみろ」と言ったら、暫くして談寛兄から電話があった。「いなげやの近くにツツジがあったので掘り起こした。車のトランクに根は収まったけれど、花は収まらない。どうやって運びましょうか」。談志は一言、「近所でやるな!」。
ある日、談寛兄が「志の輔くん、僕はたけしさんのところに行こうと思う。これから師匠に言いに行く」と言って、書斎に入っていった。談志は「たけしのところに行きたいのか?」と訊いて、後ろの書棚に並んでいるウイスキーの中からオールドパーを取り出した。てっきり、談寛兄のことを殴るのかと思ったら、その瓶に自分の名刺をセロテープで貼りつけ、「これを持って行けば、さすがのたけしも断れないだろう」。すごいと思った。談寛兄は普通の人間じゃない。その後の活躍はご存知の通りです。やりたいことを落語に閉じ込めない。そのセンスは、ただのおかしな人ではなかったのだ、と。
談吉が談寛を名乗ると聞いたとき、「ダンカンさんは許したのか」と訊いた。初代談寛はビートたけしさんのところに行ったとき、「ふんころがし」という名前を付けられた。それが嫌で、談志に「ダンカンを欲しい」と乞い願った。すると、談志は「欲しいのか?わかった、やる!だが、金を持って来い」と言ったそうです。その金額は覚えていないとか。
談寛「兄さん」が噺家を辞めても、ダンカン兄さんとは呼べないので、「ダンカンさん」と敬意をもって呼んでいた。その「談寛」が立川流に戻ってきたのです!ようやく、「ダンカン!」と思い存分呼び捨てにできる日が決ました(笑)。
三本締めを志の輔師匠はやらず、目の前のテーブルに座っていた談志師匠の長女の松岡弓子さんを指名した。弓子さんは壇上に昇り、短くスピーチをした。談吉さんはなぜ談寛を名乗りたかったのか、本人に訊いたそうだ。いわく「談志のつけた名前がほしかった」。実は談吉という名前は弓子さんが「パパ、談吉って可愛い名前だと思わない?」と言って、採用された名前だったと明かした。なるほど!
そして、八十八歳になる談志夫人の則子さんから託されたという手紙を代読した。「談吉さんにどうしても御礼が言いたい。談志が亡くなって、棺に入れるときに、黒紋付に袴姿にしたいと願ったら、談吉さんが一生懸命着替えをしてくれた。とても素敵な談志になった。俺は談志だ!と言いながら、高座に向かうようだった。どうか、落語って良いなと思える落語家になってください。師匠も見守っています」。何て素敵なエピソードだろう。聞いていて、涙が零れた。
二代目談寛師匠、とても素敵な真打昇進披露をありがとうございました。これからもずっと応援していきます!

