【熱談プレイバック】昭和の大横綱 大鵬伝

NHK総合テレビで「熱談プレイバック 昭和の大横綱 大鵬伝」を観ました。NHKに残る貴重なアーカイブス映像と神田阿久鯉先生の講談のコラボレーション番組、今回は32回の優勝を誇る横綱大鵬の物語だ。
昭和31年、16歳の少年、納谷幸喜は北海道から「お腹いっぱいご飯が食べられる」と二所ノ関部屋に入門した。元大関佐賀ノ花の二所ノ関親方は納谷の細いながらも柔らかい体と大きな尻を見て、大成すると見込み、毎日四股を500回、鉄砲を2000回というノルマを課した。そして、“鬼軍曹”“稽古場横綱”と渾名されていた十両の瀧見山に徹底的に指導するよう命じる。ぶつかり稽古は30~40分を超えた。
そんな厳しい稽古の甲斐あって、入門3年で十両に昇進。中国の故事から採って大鵬という四股名が付いた。昭和36年初場所、新入幕で初日に泉洋に勝って以降、破竹の11連勝。12日目に小結の柏戸と対戦。大鵬の2年先輩で、富樫と名乗っていたときから馬力のある速攻相撲で評判をとった力士だ。勝負は上手出し投げで柏戸が勝ったが、これが柏鵬時代の幕開きだった。
大鵬はライバル柏戸を念頭に置いて、他の部屋に行く出稽古を重ね、ちゃんこは鶏肉(かしわ)しか食わないというゲン担ぎまでした。そして、史上最年少で大関に昇進した。それでもなかなか柏戸に勝てない大鵬に対し、親方は「逆らわず自然体でいけ」「負けない相撲を目指せ」とアドバイスした。
昭和36年秋場所。大鵬と柏戸は大関同士の優勝決定戦で対戦し、うっちゃりで大鵬が勝利を収めた。それは親方の言う「柳に風」の如く柔らかい体を生かした相撲の勝利だった。場所後に当時としては史上最年少(後に北の湖が更新)で横綱に昇進、柏戸との同時昇進だった。名実ともに柏鵬時代が到来した。
強くて甘いマスクの大鵬は人気で、「巨人・大鵬・玉子焼き」と謳われた。6場所連続優勝も記録した。昭和40年の夏の東北巡業で旅館の娘で、当時高校3年生だった芳子さんに一目惚れ。猛アタックの甲斐あって、昭和42年、27歳で結婚した。
優勝するのが当たり前といわれた大鵬は孤独だった。大一番の前夜に眠れずに軍艦の模型作りに熱中する姿を芳子さんは見て、「弱味を見せられない横綱の重圧」を感じ、蔭からそっと支えた。左肘骨折、左膝靭帯損傷。再起不能といわれたときも、芳子さんは支えた。千葉の白子海岸で走り込みをする大鵬の後ろから追いかけて、一緒に走ったこともあったという。
昭和43年秋場所、8ヶ月ぶりに土俵に復帰。初日こそ前頭の栃東に敗れるも、その後14連勝して優勝。同年九州場所、翌年初場所は全勝優勝。力士たちは「打倒大鵬」を目指して、足取り、蹴返し、猫だましといった奇襲に出るも大鵬は負けなかった。双葉山の69連勝を塗り替えるのではないかと思われた。
そして、昭和44年春場所2日目。戸田(後の羽黒岩)に不覚を取る。一度は大鵬に軍配があがるも、物言いがつき、行司差し違えで戸田の勝利となり、連勝は45でストップした。だが、この一番は戸田の足が先に出ていたことが後に判明し、「世紀の大誤審」と言われ、物言いの協議にビデオ判定が採用されるきっかけとなった。だが、大鵬は芳子に対し、「物言いがつくような相撲を取る横綱でがいけないんだ」と言い聞かせたという。
昭和44年名古屋場所に柏戸が引退。45年春場所に北の富士と玉の海が横綱に昇進し、世代交代が叫ばれた。大鵬の体はすでに悲鳴をあげていた。「横綱として最後の役目は負けること」と考えた。つまり、新しい時代を担う力士を待ち望んだのだ。
昭和46年初場所。当時プリンスと呼ばれた小結貴ノ花、弱冠二十歳が大鵬と対戦、結果は浴びせ倒しで大鵬が勝ったが、そのときに貴ノ花が大けがを負ってしまった。しかし、その年の夏場所、復帰した貴ノ花は大鵬に雪辱を果たす。取組後、貴ノ花は支度部屋の大鵬を訪ね、「ありがとうございます」と言うと、大鵬は「がんばれよ」と激励した。
翌日、大鵬は引退を発表。7年間務めた横綱の地位を降りた。「晴れ晴れとした五月晴れのような気持ちだ」と語ったという。昭和の大横綱の人間的側面にまで迫った良い番組だった。