熱談 プレイバック ランランカンカン物語

NHK総合テレビで「熱談!プレイバック ランランカンカン物語」を観ました。NHKに残る貴重なアーカイブス映像と神田阿久鯉先生の講談のコラボレーション、今回は日本に初めてやって来たジャイアントパンダの物語だ。
昭和47年9月29日、田中角栄首相の訪日により、日中国交正常化が成立し、中国から日本に一対のパンダが贈られた。パンダは当時、中国四川省に1200頭ほどしか棲息していない稀少動物。二階堂進官房長官は上野動物園の飼育課長だった中川志郎を呼び、「絶対に死なさないでくれ」と厳命、パンダの容態の緊急連絡網が作られ、首相官邸への直通電話まで伝わる仕組みになっていた。
10月28日、専用機でパンダが来日。オスのカンカンは2歳、メスのランランは4歳だった。飼育を任されたのは「トラの本間」の異名をとった本間勝男。52歳のベテラン飼育員だ。餌として用意した竹と笹をパンダに与えても口をつけない。中国から来た飼育責任者は「もっと柔らかいものでないと駄目だ」と言った。一日20キロの竹や笹を食べるパンダが牛乳とリンゴ、柿しか食べない。手を尽くして各地から9種類の竹が取り寄せられた。丹沢の竹…駄目。箱根の竹…駄目。ようやく口にしたのは栃木の孟宗竹だった。すべてが手探りの飼育だった。
11月5日から一般公開がはじまった。パンダを一目見ようという来園者で長蛇の列が2キロ、およそ5万6千人が並んだ。この騒ぎにランランは興奮状態となり、呼吸数が通常の15倍に上昇。観覧は中止となった。緊急会議が開かれ、パンダの観覧は週休2日、それも午前中2時間限定に制限した。
次に期待されるのは子作りである。アメリカの動物園専門誌に「ジャイアントパンダ同棲」の記事が載ると、上野動物園でも「繁殖は動物園の命」とばかりに動き始める。ランランが発情期を迎えた。食欲不振、匂いつけ、水槽に尻を入れるなどの行動で確信した。カンカンと住まいを一緒にして、じゃれ合わせたが、ペアリングは未遂に終わる。
パンダの発情期は年に一度、一週間しかない。昭和50年には発情を促そうと、馬肉スープを与え、発情期の鳴き声を録音したテープを流したがうまくいかなかった。昭和52年にペアリング成功。「パンダの赤ちゃん」というレコードが発売されるなど、期待は高まったが、妊娠の兆候は現れなかった。昭和53年に妊娠の兆候はあったが、流産。飼育員の本間は「二頭が元気でいれば、それで十分」と思うようになった。
昭和54年夏。ランランが急性腎不全となり倒れる。5日間の治療の甲斐もなく、9月4日永眠。死体を解剖すると、小さな命を宿っていることが確認された。翌年6月30日、ランランを追うようにカンカンが永眠。飼育員の本間も定年を迎え、思い出をこう語る。「あんなに身が引き裂かれる思いをしたことはなかった」。
その後、これらの経験と知識が生きて、日本では7頭のパンダ誕生につながったという。だが、ランランとカンカンほど国民的人気で日本が熱狂した動物はこの先も現れないだろう。