【アナザーストーリーズ】女王 美空ひばり 魂のラストステージ

NHK―BSで「アナザーストーリーズ 女王 美空ひばり 魂のラストステージ」を観ました。
1989年2月7日、北九州市小倉の九州厚生年金会館ホールでのコンサートが美空ひばりにとってのラストステージになった。映像は残っていないが、専属バンド指揮者のチャーリィ脇野が録音したカセットテープがあり、その貴重な音源がこの番組の根幹をなしているのが素晴らしい。
全国28カ所をめぐる全国ツアーの初日の福岡市公演を終え、2日目が小倉だった。美空の体調はすぐれず、福岡から小倉までの70キロをヘリコプターで移動した。開演10分前になっても、美空は控室で寝ていた。ステージには椅子が用意された。「機材トラブルのため、開演が遅れています」というアナウンスが流れた。そして、15分後。美空はオープニングメドレー演奏の後に登場し、「真っ赤な太陽」を歌った。脇野は異変を感じていた。
5曲を歌うと、美空は用意された椅子に座った。「私もね、40幾つだから。座っちゃう」と冗談っぽく言いながら。実際は52歳だ。医師もスタンバイしていた。食道に静脈りゅうがあり、「破裂したら吐血、呼吸困難」という危険もあったからだ。昼の部が終わり、点滴を受けた。夜の部は中止も検討されたが、美空は強行した。
音響担当者は振り返る。「ひばりさんは裏声が綺麗な人。その裏声が返らなかった。声がバンドに負けてしまう」。第一部と第二部の間の早着替えで袖に引っ込んだとき、倒れ込むようだった。だが、再びステージに登場。「愛燦燦」を平然と歌い上げた。
ステージの最高責任者は息子の加藤和也だ。そのとき、十七歳。「本人がやめると言ってくれない。迷ったが、やるしかなかった」。その後の全国ツアーのチケットは完売。キャンセルすると、2億円の赤字が出る。
美空ひばりは1946年生まれ。9歳で美空楽団で歌手としてデビューし、ステージに映画にとひっぱり凧だった。母・喜美枝との二人三脚。だが、美空が44歳のときに他界した。弟の哲也はその2年後に逝去。支えを失った。美空は弟の息子・和也を養子に迎え、可愛がった。忙しい合間を縫って、本の読み聞かせをテープに録音して渡すほど溺愛していた。
美空が体調不良を訴えたのは、1987年4月。肝硬変と両側大腿骨頭壊死。マスコミは「再起不能」と報じた。だが、8月には退院。「もう一度歌いたい」と会見で言った。和也が15歳のときだった。
美空が100日間の入院生活をしている間も、裏では「復帰イベント計画」が練られていた。88年に竣工する東京ドームでのこけら落としコンサートに期待がかかり、4月11日に復帰コンサートは開催され、全39曲を歌った。
このときのことを美空は記している。この結果に少しも満足していない。こんな気持ちで何年もつのか?「女王の復帰」と騒ぐマスコミに対し、冷静だったことがわかる。和也は「母を守りたい。母を支える仕事をしよう」と思った。そして、16歳で所属事務所の副社長になった。美空も「和也を一人前のプロデューサーにしよう」という新しい目標ができた。
89年2月7日の小倉でのコンサート。全20曲を歌い終え、幕が下りた直後に美空は倒れた。和也はその後の全国ツアー中止を決定した。美空の日記にこうある。春風に花咲くものと待ちわびしが、我が願い永久に叶わじ、夢の又夢…。
美空ひばりにとって最期のシングルになったのが「川の流れのように」だ。音楽プロデューサーの境弘邦は「30代の客に届くような歌を」と、アルバム「不死鳥パートⅡ」の制作を、当時32歳だった若きヒットメーカーである秋元康に託した。1988年12月1日リリース。
その中の曲「ハハハ」をシングルカットしようと境はじめ制作陣は考えた。その軽快な曲は評判で、従来の美空ひばりの新しい一面を打ち出すと思ったからだ。だが、昭和天皇重体のニュースが流れ、方針は一変した。
そのときに美空本人が希望したのが「川の流れのように」だった。「川は人生なんだ」と美空は譲らなかったという。それは自分の生い立ちから今日までを重ね、人知れぬ葛藤と闘い、自分で決めた道を歩んできた美空ひばりの最期の主張だったのかもしれない。諦めない。妥協しない。そういう人生を歩んできた。
シングルレコード「川の流れのように」は昭和という時代が終焉した4日後にリリースされた。境は「最後の幕引きは自分の手で下ろす」と思っていたんでしょうねと振り返った。
1989年6月24日逝去。享年五十二。小倉のラストステージから4カ月半後だった。だから、「川の流れのように」を客前で美空は数えるほどしか歌っていない。葬儀会場で列席者がこの歌を歌うと、それに合わせて外にいたファンが皆で大合唱した。歌は生き続けているのだ。「川は大海原へと流れこんだ」という番組のラストコメントが秀逸だった。