講談協会定席 神田香織「お菓子放浪記」神田織音「呑龍上人」
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上野広小路亭の講談協会定席二月初日に行きました。
「水戸黄門漫遊記 釈場の喧嘩」神田伊織/「山内一豊 出世の馬揃え」一龍斎貞弥/「寛永三馬術 曲垣と度々平」宝井琴梅/中入り/「呑龍上人」神田織音/「お菓子放浪記 二人の恩人との出会い」神田香織
織音先生の「吞龍上人」、とても良かった。父親の源五兵衛が中風に罹り、それを治そうという一心で息子の源次兵衛は御禁制の鶴を捕獲し、その生き血を飲ませる。露見すれば源次兵衛はもちろん、姉のお初、父の源五兵衛も召し捕られてしまう。それを覚悟で決死の親孝行を源次兵衛はおこなったのだ。
だが、村のならず者であるマムシの浪右衛門がこのことを知り、お初に「女房になれ」と強請りをかける。やがて、このことは村中の人々の知ることとなるが、名主の仙右衛門をはじめとする村人は源次兵衛の孝行を支持し、何とか助けたい、守りたいと考えた。そこで、源次兵衛を勘当したことにして立ち退かせれば、源五兵衛やお初の咎にはならないと考え、源次兵衛を村から逃がした。その後、役人の渋川忠太夫が訊ねに来たが、事なきを得た。
源次兵衛は大田にある大光院という寺の住職、呑龍上人に匿ってもらう。源次兵衛の頭を丸め、修行僧の格好をさせて、多くの小坊主と一緒にしたので、嗅ぎつけた役人がやってきても露見しなかった。だが、このままではいずれ捕まってしまうと考えた吞龍は源次兵衛と二人で逃亡の旅に出る。しばらくは信州小諸に潜伏していたが、思い立って、渡良瀬川の畔まで足を伸ばし、地蔵堂に腰を下ろす。
「ここは上州ではありませんか」と言う源次兵衛に対し、吞龍は「家に帰って父と姉に会ってきなさい」と言う。毎晩のように父親の夢を見て涙を流している源次兵衛の心中を察してのことだった。源次兵衛が帰宅すると、家の中が騒がしい。マムシの浪右衛門がお初に強引に迫り、身体の不自由な源五兵衛が脇差を持ち出して追い払おうとしているところだった。そこに源次兵衛が現れ、浪右衛門を追い出すことに成功した。
源次兵衛は父親をおぶって、お初と三人で恩人である吞龍のいる地蔵堂へ御礼を言いに向かう。吞龍は読経をしている最中だった。そこに何人もの役人が取り囲み、“鶴殺し”の罪人である源次兵衛を捕らえようとしたとき…一人の使者がやって来て、将軍家の上意を伝える。それは源次兵衛を許すというものだった。実は吞龍が源次兵衛の親孝行に免じて許しを乞う手紙を将軍秀忠に送っていたのだった。慈悲深い吞龍の配慮によって、一家三人は幸せに暮らすことができたという…。素敵な読み物だった。
香織先生の「お菓子放浪記」は、西村滋先生の小説を講談化したものだ。昭和15年、孤児院を飛び出した13歳の滋は菓子パン一個を盗んで、捕まってしまう。取り調べをした遠山刑事は「お前は少年審判所に行って裁かれ、行き先が決まる」と言って、バスに乗る滋に菓子パン二個を買って渡す。滋は一個を食べると、残りの一個を遠山刑事に返す。だが、遠山は「これも食べなさい」。菓子パンの甘みは親切の甘みだと滋は思う。
滋は報徳学院という施設に入れられた。日比野という指導員は「更生して罪を償え」と言い、お国のために働く兵隊さんを敬えという軍国主義者で、その厳しさから“ホワイト・サタン”と渾名されていた。対照的に、富永先生は「人を思いやる心、人を信じる心を育ててほしい」という考えで、子どもらに優しく接してくれる。月に一回、面会日があるが滋以外の子らは親族が会いに来て、お菓子などを差し入れしてくれる。だが誰も来ない滋はそれをとても羨ましく思った。
滋は娯楽室で富永先生がオルガンを弾いて歌ってくれる♬お菓子と娘という歌が大好きだった。西条八十がパリに留学したときの経験を基に作詞したもので、歌詞にエクレールが出てくるのがお気に入りだった。日比野が敵性国の歌はもってのほかだと言うと、富永は「これは日本人が作った歌です」と言い返すが、日比野は「そんな軟弱な歌はけしからん。軍歌や愛国歌謡を歌え」とこの歌を禁止してしまった。
報徳学院では年に2回、お菓子が支給される。お正月と6月1日の創立記念日だ。やがてやってきた創立記念日で滋はお菓子を貰う。その喜びを恩人である遠山刑事に手紙に書いて送った。金平糖を一つ舐めて、残りのお菓子は枕元に置いて寝た。翌朝になると、お菓子が消えていた。盗まれたのだ。富永先生は「あなたは盗まれることはないと油断していた。だけれども、その油断はとても尊いのです」と言った。
12月8日、日米開戦。正月にお菓子が支給された。日比野は「戦地の兵隊さんに贈りたいと思う者は手を挙げなさい」と言った。強制ではないが、皆は渋々手を挙げた。だが、滋は「僕は嫌です」と強硬に断った。胸がときめかないお菓子…それは憧れていたお菓子じゃない!と泣いた。富永先生の優しさだけが支えだった。
滋を養子にもらいたいという話が来た。滋のために退所式がおこなわれた。滋は富永先生に言った。「僕は先生のオルガンが一番好きでした。いつも神様なんていない、神様は僕のことが嫌いなんだと思っていました。でも、お菓子と娘の歌を聴いたとき、ポパイがほうれん草を食べたときみたいに元気が湧きました。神様が少しは僕に微笑んでくれたのかもしれません」。滋は社会へ出た。だが、世の中は戦争一色だった…。孤児である滋の目を通して、戦時中の日本の愚劣が見えてきた。
上野広小路亭の講談協会定席二月二日目に行きました。
「笹野名槍伝 道場破り」神田伊織/「井伊直人」宝井琴鶴/「徂徠豆腐」一龍斎貞心/中入り/「太閤記 長短槍試合」田辺一邑/「お菓子放浪記 旅の一座との出会い」神田香織
香織先生は前日の「お菓子放浪記」の続き。野田房乃の養子として引き取られた滋は映画のフィルム運びやクリーニング屋の手伝いなどをして働いた。恩人である遠山刑事に会いに行こうと浅草を通ったときに、喫茶店に「無糖紅茶 お菓子付き」という看板を見つけ、入店した。だが、その「お菓子」とはニンジンを甘く煮たもので、ウエイトレスに文句を言うと「この戦時中に本物のお菓子など贅沢。このように代用品で我慢してもらっている」と説明され、滋は怒りを覚え、ニンジンを床に叩きつけて、店を出た。代用品をお菓子として認めたくないという滋の熱い思いがあった。
遠山刑事に会って、このことを話すと、奥さんが「今の時代はインチキが多過ぎる」と同情してくれた。そして、お汁粉を出してくれた。配給の小豆と砂糖を使った、とっておきのもてなしに滋は胸がいっぱいになり、涙を流した。お汁粉は思いやりの味がした。
滋は家を出る決意をする。というのも、野田房乃という女性はとんだ食わせもので、滋の前に養女に迎えた女の子も宿場女郎に売り飛ばす悪党だったのだ。滋が働いて稼いだお金も「貯金してあげる」と言って奪い、私腹を肥やしていた。滋は広島に向かう列車に無賃乗車で乗ったが、切符を調べる車掌が来たので、途中で飛び降りた。そこで出会ったのが、旅の一座。芝居をしながら全国を廻っている尾上紋三郎を座長とする集団が滋を仲間に入れてくれたのだ。
だが、一座に警官が検閲に入る。戦局をどのように心得ているのか、本土決戦も必至といわれている中、亡国的芝居はもってのほかだという理由で、上演中の「婦系図」をやめて、時局に相応しい演目に変えろという指示だ。天中軒雲月は軍国モノをうなっている、広沢虎造も軍記モノを口演している、すべからく啓蒙的でなくてはならないと叱る。
そこで一座は知恵を絞った。滋が見張りをして、警官がやって来たら、合図を出す。早瀬主税と芸者お蔦の別れの場面。お蔦が割烹着を着て、愛国婦人会に襷を掛けて、「陛下のために戦ってください。銃後の守りは任せてください」と言って、観客と一緒になって♬勝ってくるぞと勇ましく~と歌い、出征シーンに変えてしまうという策略だ。
17歳の滋はそれまで一座の人たちを「人生の落伍者」と軽蔑していた。だが、それは間違いであったと気づく。軍国主義を謳って新聞に出ているような人より、戦争を批判している一座の人の方がずっと偉いのではないか。この人たちについていこう!と思う。だが、女方の役者である歌昇に赤紙が来た。歌昇は「人を殺すことなどできない」と言って、首吊り自殺してしまった。そして、一座は解散してしまった。
昭和20年。滋はある農家で働いていたが、3月10日の東京大空襲の噂を耳にして、東京へ向かう。そこは見渡す限り、焼け野原だった…。香織先生の二席目はここで終わった。まだまだ、この続きが聴きたいと思った。