二月文楽公演 通し狂言「妹背山婦女庭訓」
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二月文楽公演 第一部・第二部・第三部を観ました。「妹背山婦女庭訓」の通し公演だ。
第一部 小松原の段/太宰館の段/妹山背山の段
第二部 猿沢池の段/鹿殺しの段/掛乞の段/万歳の段/芝六忠義の段
第三部 杉酒屋の段/道行恋苧環/鱶七上使の段/姫戻りの段/金殿の段
妹山背山の段。久我之助と雛鳥の悲恋。これは単純に大判事家と太宰家が領地争いで対立していることに起因している問題ではない。権力闘争で勢いを持つ蘇我入鹿の厳命。久我之助に対しては入鹿に出仕しろ、雛鳥に対しては入鹿へ嫁げというものだ。これが何を意味するのか。
久我之助は帝が寵愛する藤原鎌足の娘・采女に仕えていた。だが、入鹿の父である曽我蝦夷子が娘の橘姫を后にしようと目論み、采女は邪魔な存在であり、その命を狙っていた。久我之助は采女を鎌足の許に届け、入水したように見せかける。だが、入鹿は信じない。そのため、久我之助が入鹿に出仕すると、采女の行方をめぐって拷問にかけられることは必至だ。ならば、そんな恥辱を受けるより、自害した方が良い。だが、雛鳥を救うためには出仕を承知したことにしてほしいと、父の大判事清澄に頼む。
一方、雛鳥は久我之助のことを愛しており、入鹿に嫁ぐなどもってのほかだと内心思っている。だが、入内を拒めば、久我之助の命が危なくなる。貞女の道として久我之助を救うために、泣く泣く入鹿に嫁ぐ決意をして、母親の後室定高の手により髪を宮廷風に結い直す。しかし、久我之助への貞節を守るために自害しようと思っている。そんな娘の心中を察している定高は雛鳥の恋を全うさせるため、自ら手に掛ける覚悟でいる。
久我之助、雛鳥ともに、相手のために自分を犠牲にしようと考え、さらにその思いを理解した親の大判事、定高が協力しようとしているのが、とても胸を締め付けられる。
久我之助は自らに刀を突き立て、大判事が「出仕承諾」を意味する花の付いた桜の枝を川に流す。これを見た雛鳥は久我之助の無事を喜び、定高が「入内承諾」の満開の桜の枝を川に流す。久我之助は苦しい息のもと、雛鳥の無事を知って安堵する。
互いを慮っている健気さに心を痛める思いだ。しばらくして、定高が雛鳥の首を討った慟哭が響き渡る。大判事と定高は襖を開け、顔を見合わせ、互いに相手の子の命を救おうとしたのに、すべて水の泡になったことを悟る。
定高は久我之助の息のあるうちに「祝言」をと、嫁入り道具と雛鳥の首を川に流す。それを受け取った大判事は久我之助に雛鳥を添わせ、息子の首を討ち落とす。夫婦となった二人の首を大判事が抱え、入鹿の許へ向かうのが悲しすぎる。
芝六忠義の段。芝六の鹿殺しをめぐっての悲喜こもごもストーリーだ。それは蘇我入鹿討伐を狙う藤原鎌足と息子の淡海が欲してした爪黒の牝鹿の生き血を献上しようと芝六が考えての行動だった。
芝六は元々は藤原鎌足の旧臣・玄上太郎利綱だったが、鎌足から勘当されてしまった。何とか勘当が揺れるようにと願っていた芝六に対し、淡海は帝一行の安全を考え、匿ってほしいと頼み、芝六はこれを受けた。猟が禁じられていた鹿を殺したのも、その一連の流れである。
だが、鹿殺しの犯人捜しはすぐに始まる。訴人すれば褒美が貰えるという。このことを知った芝六の倅の三作は「自分が鹿殺しをした」と書いた手紙を弟の杉松に持たせ、興福寺に届けさせる。なぜ、三作はこのような行動に出たのか。芝六と女房お雉の間には二人の倅がいたが、三作はお雉の連れ子で、杉松は芝六の実子である。そのため、三作は日頃からお雉に「継父の芝六に孝行せよ」と言い聞かせられていたのだ。
三作はすごい。芝六の身代わりになったことを知って芝六が悲しまないように、京へ奉公に出たことにして、自分の分まで弟を可愛がってくれとお雉に頼む。そして、こうなったのは狩りで殺生を重ねた報いだと言い、せめて弟は狩人にしないようにと願う。三作は罪人として地面の穴に埋められ、周りに石を詰めて生き埋めにする石子詰の刑が待っている。
一方の芝六にも考えがあった。ほろ酔いで帰宅すると、お雉に対し「鹿殺しの疑いは晴れた」と嘘をつき、寝入る。そして夜明けとともに、添い寝していた倅の杉松を刺し殺すのだ。鎌足親子に真意を疑われていると悟ったため、実子の杉松を犠牲にすることで覚悟を示したのだ。亡き杉松の分まで三作を可愛がれと言うと、お雉は三作は芝六の身代わりとして鹿殺しの犯人として捕まったことを告げる。ああ、なんという…。お互いがお互いを慮って起きた悲劇だ。
救われたのは三作だった。鎌足がやって来て、石子詰のために掘った土中から、曽我蝦夷子が内裏から盗んだ神鏡と勾玉が見つかったため、三作は助けられたのだ。鎌足は芝六の勘当を許し、三作と親子二代の家臣にする。だが、掟に背くことはできないので、鹿殺しの代償として、杉松の亡骸を埋めることにした。
神鏡が出てきたため、帝の目が光を取り戻した。鎌足親子は献上された爪黒の牝鹿の生き血を持って、帝とともに入鹿討伐のために興福寺に向かう。このとき、芝六の心中は喜びもあるだろうが、杉松を犠牲にしたことはいつまでも引っ掛かりとして残るだろう。まさに悲喜こもごもである。
道行恋苧環~金殿の段。求馬実は藤原淡海をめぐって、橘姫とお三輪が恋の鞘当てを繰り広げる。だが、そこには淡海の蘇我入鹿討伐のための緻密な計算があったわけだ。
橘姫は入鹿の妹。入鹿が帝から奪った十握の宝剣を取り戻せば、すなわち政権も帝および藤原鎌足の側に戻ってきたことを意味する。橘姫は兄と恋人との板挟みになるわけだが、愛する淡海に従う決断をする。もし失敗してこの世で結ばれなくても、来世では必ず夫婦になろうと約束し、計画を実行。橘姫は深手を負いながらも十握の宝剣を奪い取ることに成功した。帰還した天智帝は近江国の大津に遷都し、淡海と橘姫は晴れて結ばれることになる。
可哀想なのはお三輪である。淡海は烏帽子折に身をやつし、求馬と名乗って三輪の里に潜伏していた。そのときに出会ったのが杉酒屋の娘・お三輪だった。求馬とお三輪は恋仲となったのだが、そこに橘姫が訪ねてきて恋する男の奪い合いになる。ここにお三輪のジェラシーが生まれるのが、淡海の目的だ。
蘇我入鹿は母が白い牝鹿の生き血を飲んで産まれた。そのため、爪黒の牝鹿の血と、激しい疑念と嫉妬にまみれて「疑着の相」になった女の血を混ぜて注いだ笛を吹くと、入鹿は正体を失ってしまうのだ。
すでに爪黒の牝鹿の血は芝六こと玄上太郎利綱が入手し、藤原鎌足に献上している。あとは「疑着の相」になった女の血だ。鎌足の使者、鱶七実は金輪五郎が金殿で待ち構えていて、求馬を追ってやって来たお三輪を捕らえる。「求馬は今夜にも橘姫と祝言を挙げる」と知ったお三輪は屈辱と嫉妬で逆上している。五郎はお三輪の脇腹に刃を立てた。
そして、笛にお三輪の血を注ぎ、入鹿を討つ手立てが完成する。その仔細を知ったお三輪は何と安堵と喜びのうちに息絶えるのだ。安堵と喜び?そこまでお三輪は求馬のことを愛していたのか。そして、自分が犠牲になることを喜んで死んでいったのか。橘姫が愛する淡海と夫婦になれたことを考えると、余りにも対照的な最期に泣きそうになった。