真一文字の会 春風亭一之輔「万両婿」、そして真山隼人ツキイチ独演会「村上喜剣」
「真一文字の会~春風亭一之輔勉強会」に行きました。「尻餅」「万両婿」「睨み返し」の三席。開口一番は春風亭らいちさんで「桃太郎」だった。
「万両婿」は先日の「落語一之輔春秋三夜」でネタおろししたばかりだ。この噺の主人公、相生屋小四郎が「小間物が大好き」で小間物屋になった、小間物のことに夢中になると他のことが見えなくなる人物として描いているのが面白い。小四郎が珍しい簪を探しに上方に行くと言い出したとき、妻のおときが私と小間物とどっちが大切なのか、と問うと答えに窮してしまうところからして“小間物フェチ”小四郎がよく顕われている。
だから、小四郎が一旦死んだと思われて、従兄弟の佐吉とおときが再婚してしまったのは大家のせっかちが原因だが、小四郎が実は生きていたと判っても、おときに「どちらを選ぶか」と訊けば、優しいけど仕事馬鹿な小四郎よりも、おときと一緒に小間物屋を上手に営んでいる佐吉を選んだのは仕方のないことだと思う。
大岡裁きで若狭屋の未亡人、およしと再婚する決め手になったのは、およしが二十二歳と若くて美貌の持ち主だったことでもなければ、三万両という身代に惹かれたわけでもなく、ただただ、およしの髪の簪がこれまでに見たことのない珍しいものであったという一点だった。従来の「万両婿」という噺が持つ「金持ちで美人だから小四郎さん良かったね、めでたし、めでたし」としたくない一之輔師匠の了見がよく出ていて良かったと思う。
この三年後、小四郎はまたも珍しい小間物を探しに奥州へ旅して、前回と同じように死んだことにされ、近江屋善兵衛という仙台一の小間物屋の主に収まる。その後も、唐土、インド、アラブ、ローマ、フランス、イギリス…と同様のことを18回繰り返して世界一の小間物屋になったという…と噺を完全な御伽話にしてしまう。そこに一之輔落語の美学があると感心した。
真山隼人ツキイチ独演会に行きました。「村上喜剣」「エッセイ浪曲 ヨヨヨイノヨイ」「大石の最後」の三席。曲師は沢村さくらさん。
「村上喜剣」。薩摩の武士、村上喜剣は山科の往来で大石内蔵助に声を掛けて、仇討しないのかと不躾に訊く。大石は慌てて、一力茶屋の奥座敷に通し、その上で「仇討など野暮」と一蹴する。すると、喜剣は蛸の酢の物を足で大石に押し付け、「見損なった」と言って帰ってしまった。
その後、喜剣は各地を経巡り、江戸へ出たのは元禄16年。揃いの衣裳を着た30数名の職人衆がいるので、「どこかで祭礼か」と問うと、「墓参りの帰りだ」と言う。それも「赤穂浪人の墓」だと。昨年極月14日に吉良邸討ち入りをして見事本懐を遂げたが、今年2月4日に四十七士は切腹を命じられて亡くなったということを喜剣はここで初めて知る。彼らは赤穂浪士を預かっていた細川藩出入りの職人だったのだ。
職人の一人が「許せないこと」があると言って、山科で大石内蔵助に会った侍の話をする。手を出して足をいただく蛸肴。大石様は利口で馬鹿の真似をした。喜剣は自分がしでかした無礼を大いに恥じて、泉岳寺に500両を納め、雨の日も風の日も通って、大石の墓前で詫びた。
それにつけても思い出す、若侍4人を手に掛け、自ら切腹しようとしたときに、島津の殿様が言った言葉。「腹を切って何になる?島津のために働け」。あれから十余年。喜剣は髷を落とし、出家。義士の菩提を弔ったという…。赤穂義士外伝的物語が面白かった。
「大石の最後」。赤穂浪士17名を預かった細川越中守は忠臣を迎えることを大変に名誉に思い、厚遇していたことがよくわかる。富森助右衛門が赤穂に祖母と二人でいる息子に思いを馳せ、絵凧を欲しがっていたと懐かしむ。すると、細川家家臣の堀内伝右衛門の取り計らいで赤穂浪士17人が凧を作ることを許す。
赤穂浪士を助けてやれという世論に反して、四十七士は切腹という沙汰が荻生徂徠によってなされる。元禄16年2月4日。大石は取り乱しながら、腹を召してこの世を去った。その姿を見て、越中守は「所詮大石は放蕩が身についた似非武士だったのか」と思う。
だが、それは違った。ある日、床の間に飾ってある凧を見つける。伝右衛門に尋ねると、赤穂浪士17人の作だという。そこには寄せ書きがしてあった。「見事なる切腹は御一任にて候」という筆跡…。細川越中守は言う。「武士の心がわかったぞ。わざと醜い姿でこの世を去ったのは、御主君を思ってのことか」。最後まで武士の魂を忘れなかった大石内蔵助の胸中を思う。