神田一門会 神田織音「武士の本分」

神田一門会に行きました。

「笹野名槍伝 海賊退治」神田伊織/「お竹如来」神田こなぎ/「曲馬団の女」神田すみれ/「八百屋の注進」神田あおい/「勝田新左衛門」神田山緑/「武士の本分」神田織音

あおい先生の「八百屋の注進」。吉良側では赤穂浪士の討ち入りに備え、本所松坂町の屋敷の裏に住まう八百屋の甚兵衛に「いざというときに上杉家に注進する」よう依頼する。甚兵衛は「一番の注進」だったら、千両の褒美が貰えるように約束を取り付け、書付を受け取る。これで甚兵衛は千両が貰える気になり、「千両バカの甚兵衛」と陰口を叩かれるというのが可笑しい。

だが、太鼓の音がして、「いざ討ち入りだ」と判って、外に出ようとしても浅野側の侍が見張りをしていて、なかなか吉良邸に近づくことができない。何とか雪隠の屋根伝いに外に出ることに成功するが、「何をしている!」を見張りの侍に検問されてしまう。「回向院へ届ける長芋を仕入れに田町の問屋、中村屋へ行く」と言うと、その侍は同行すると言う。仕方なく中村屋まで行くが、甚兵衛は支払いが滞っているため、なかなか応対してくれない。そうこうしているうちに夜が明けてしまい、「赤穂浪士が討ち入りに成功し、泉岳寺に引き揚げている」との報せが入るという…。甚兵衛の千両の夢は泡と消えたという…何とも間抜けな読み物だ。

山緑先生の「勝田新左衛門」。勝田の義父である大竹重兵衛が偶然に両国橋で大根を天秤棒に載せた八百屋姿の勝田と出会う。「婿殿では?」。赤穂事件以来、行方知らずだったために勝田の女房のおみつも息子の新之助も心配していると伝えるが、「この後に寄る用事がある」と言って、勝田は去ってしまった。

その翌日、12月14日。黒紋付姿に着替えた勝田が牛込の大竹の家を訪ねる。喜んで出迎えるおみつと新之助だが、「この度、伊達家に仕官が叶った。刻限なので、これにて失礼する。明日、また参る」と言って、風呂敷包みを渡して勝田は行ってしまった。何はともあれ、「めでたいことだ」と言って、大竹はおみつに明日は鯛の尾頭付きを用意するように言う。

翌日。大竹は朝早くに一番風呂に入るため、鶴之湯に出掛け、湯に浸かる。すると、町内の衆が「風呂に入っている場合じゃない!大変なことが起きた!」と言って、赤穂浪士の吉良邸討ち入りの報せに来る。「その中に八百屋はいたか?」と訊ねる大竹だが、不明。やがて瓦版屋が四十七士の詳細を刷った読売を売りに来るので、大竹は湯屋の番頭に買わせる。風呂からあがった大竹はそこに書かれた“大切な方の名”を読み上げていくと…「あった!あった!勝田新左衛門!」。そうか、昨日の伊達家仕官は偽りであったのか…。

家に帰ると、膳の支度をしているおみつに赤穂浪士が仇討本懐を遂げたを伝える。慌てて昨日の風呂敷包みをあけてみると、離縁状と50両の金子。おみつは黒髪をプツリと切って、「私は勝田の妻。決して離縁はしません。生涯、勝田新左衛門の妻です」。その武士の妻としての了見が素晴らしい。大竹は孫の新之助をおぶって、泉岳寺へ。勝田と短い時間だが会うことができた。そして、「これにて失礼」と言って、新之助が握る袖を振り払って去って行く父親の姿に武士としての覚悟を見たような気がする。

織音先生の「武士の本分」は池波正太郎の「忠臣蔵余話おみちの客」を原作とした創作である。今回の口演にあたって、著作権料を払った貴重な高座。素晴らしかった。

吉良上野之介の息子である上杉綱憲は米沢藩主で15万石取りだが、赤穂事件以降、赤穂浪士による仇討が噂され、父の身柄を心配している。そのために、米沢から家来を十数名ほど本所松坂町の吉良邸の警護役として派遣している。山喜新八もその一人で、米沢藩の家来の次男坊で一刀流免許皆伝の二十五歳だ。

事件から随分と時が経ち、大石は遊興に耽っているという噂もあり、吉良邸の警護も緩みがちになっていた。新八は事務方の笠原長右衛門に誘われ、近頃人気だという赤坂伝馬町にある比丘尼宿に出入りするようになった。初めは気が乗らなかった新八だが、山城一楽という名の女が気に入り、通い詰めるようになった。その女の本名はみちと言い、心を許した新八にだけ身の上を話した。

日本橋穀町の伊勢屋という蝋燭問屋の旦那の娘。と言っても、本妻の子ではなく、妾腹の子で、妾が亡くなったので、本家で引き取った。だから、本妻からは大層に苛められたという。そこで、この比丘尼宿を紹介され、働くようになった。どこか影のあるのはそのせいで、新八は逆にそこに惹かれた。

病気がちで、「私は遠くないうちに死んでしまう」と言うのが口癖だった。十八歳だが、ある坊さんに人相を見てもらったら、「おふくろさんが死んだ歳にお前は死ぬだろう」と言われた。母は二十二で亡くなっている。「私は不幸な生まれつき。あと4年で死ぬのかと思うと怖い」と言う。武士ではあるが命のやりとりなどしたこともなく、ぬくぬくと育った新八には、そんなみちの“死にたがり”が気になって仕方がなかった。

元禄15年11月。いつものように新八がみちのところに来ると、みちはそれまでの暗さからは一転、「私はもう死なない。死ぬのはやめることにした。今を生きる」と明るく話してくれた。どうして変わったのか?新八がみちに訊くと、「お客のある方と身の上を話した」と答える。みちの身の上は新八にしか明かしていなかったが、その客がみちの暗い顔を見て心配してくれて、「話せば楽になる。話してみなさい」と言われ、呪いにかかったみたいに身の上を話した。

すると、その客が言った。死ぬのが怖い。わしも怖い。どうして怖いのかを考えたら、それほどでもなくなった。どうしたら怖くなくなるのか。今を生きるんだ。お前は今を生きながら、先のことばかりを考えている。今を見ずして、先のことを考えるなんて勿体ない。今を受け入れて懸命に生きる。そうすれば、先のことなどちゃんと準備できて、うまくいく。そう言って、その客は笑ったという。

みちはその客の胸で泣いた。その客は「私の恩人」だという。「だから、今を生きます」。これを聞いて、新八は「その客はもう来ないのか?もう会ってはいかん。わしが承知せぬ」。そう言った。

そのときから暫くは新八も忙しくて、みちに会えなかった。12月14日に開かれる吉良家の大茶会の準備に追われていたのだ。もう討ち入りなどできないのだろうという緩みもあった。新八はこれが最後の奉公と勤め、茶会は大成功に終わった。安心した新八はしたたか飲み、酔い潰れていた。すると、「火事だ!」の声。跳ね起きた。討ち入りだった。

部屋の中で新八は息をひそめた。敵は100、200人に感じる。犬死にだ。とても敵わない。死ぬのが怖い。そう思ったとき、みちの「今を生きる」という声が蘇った。わしがすべきことは、殿を助けることだ。敢然と赤穂浪士に立ち向かった。四十七士の急襲に、吉良側はひとたまりもなくやられた。その中で新八は立派な働きをして、無数の傷を負ってその場に倒れた。だが、命は助かった。あとから聞けば、吉良側の家来は逃げる者ばかりで、一部の家来だけが立ち向かったそうだ。

比丘尼宿にも吉良邸討ち入りの噂が伝わる。みちは仲間と一緒に泉岳寺へ行った。浪士一行が現れた。みちはハッと息を飲む。先頭にいるあの人は…「今を生きろ」と教えた客…大石内蔵助その人だった。

新八は米沢に戻り、その活躍は賞賛された。あの一瞬は、一生を変える別れ道だった。今を生きる…それこそが武士の本分ではないか。池波正太郎先生の小説を見事に素敵な講談に創作した織音先生に拍手喝采の高座であった。