こまつ座「芭蕉通夜舟」、そして神田春陽「小西屋政談」

こまつ座公演「芭蕉通夜舟」を観ました。初演が1983年の作品で、12年ぶりの上演、松尾芭蕉を内野聖陽さんが演じるのは初めてである。

このお芝居を通して、松尾芭蕉イコール井上ひさし、なのではないかという思いに至った。制作統括の井上麻矢さんがパンフレットの前口上で以下のように書いている。以下、抜粋。

井上ひさしも、芭蕉を調べれば調べるほど好きになったに違いありません。人をびっくりさせるような奇抜な趣向、古典のもじりなどは大いに真似たように思います。元禄文化が花開こうとする直前の享楽気分に背を向け俗世間から距離を置いた芭蕉でしたが、井上ひさしはどうだったでしょうか。この戯曲が書かれた1983年はバブル期前。私の知る限り、こちらもまた、浮かれつつある時代にあって、鋭い作品で世の中と戦っていました。

いきなり銀座のバーに出没したりすることもなく、無精ヒゲを撫でながらひたすら原稿用紙に向かい、執筆中の唯一の楽しみは伸び切ったたぬきそばを食べることくらい。芭蕉が便座に座って大自然の中で自己否定を一人で繰り返していたように、井上ひさしは古今東西、神話から土着の物語に至るまで、一人で本を読み続け、内なる旅に出ていました。だから古の芭蕉は、時を超えてずっとこの戯曲を書く作家の側にいたのだと思います。以上、抜粋。

かつては駄洒落や言葉遊びと思われがちだった俳句を苦闘しながら芸術性の高いものした松尾芭蕉。芭蕉を演じた内野さんは「言いおおせて何かある」という芭蕉の教えを引き合いに出して、「演じおおせて何かある」芝居にしたいとインタビューに答えている。それは、十七文字の中にすべて言いたいことを詰め込んだら、何もなくなってしまう、つまり「言葉では言い尽くせぬ、言葉の果てにあるもの」に勝負をかけるということ。「空白」を大切にして、演技の裏にある世界を観客にイメージさせたいということだろう。

芭蕉が辿り着いた「かるみ、こっけい(興)、新しみ」。日常をあくせく生きている我々現代人が、その境地に少しでも近づけたらと僕も思う。

夜は新宿講談会に行きました。神田春陽先生が「小西屋政談」を通しで読むと聞いて、おっとり刀で駆け付けた。

「水戸黄門漫遊記 百姓の御意見」田辺凌々/「天正の三勇士出会い」神田ようかん/「柳沢昇進録 お歌合せ」神田おりびあ/「小西屋政談」(上)神田春陽/「扇の的」神田鯉花/中入り/「愛宕山 梅花の誉れ」田辺いちか/「小西屋政談」(下)神田春陽

春陽先生の「小西屋政談」。日本橋本町三丁目の薬師問屋、小西屋の長男の長三郎は堅物で、学問ばかり。心配した父の長左衛門は通い番頭の善兵衛に頼み、長三郎に花見にでも出掛けるように仕向けてもらう。

親孝行のためを思い、長三郎は小僧の和吉を連れて出掛けた。だが、行き先は向島でも上野でもない、巣鴨の染井、本妙寺。明暦の大火の火元とされているが、本当は旗本の金子某の一人娘と睨んでいて、それを確かめたいと言う。この寺には遠山の金さんの墓があり、桜吹雪の花見が出来るという理屈だ。その途中、音羽六丁目で長三郎が腹痛を起こした。長屋の厠を見つけ、そこで用を足す。その節穴から長屋の角から四軒目の家が覗け、四十五、六の浪人風情に昼の御膳を出している十七、八の娘を見つける。その娘が実に美しく、一目惚れしてしまった。手を洗おうとしたら、その浪人が出てきて、娘に「水をかけてやれ」と命じる。浪人は元有馬藩の大藤羽左衛門、娘は千代という名だった。長三郎は「この娘に勝る花はあるまい」と思い、花見をやめてお店へ帰ってしまう。そして、恋煩いで寝込んでしまった。

父の長左衛門は心配し、善兵衛に事情を調べてもらうと、「音羽六丁目のこと」が発覚。早速、善兵衛に話をつけるように命じ、善兵衛は和吉を連れて大藤羽左衛門宅に行って、空腹を覚えたゆえ弁当を遣いたいと軒先を借りる。花見の弁当や酒を広げると、羽左衛門は酒に燗をつけて差し上げようと言い、さらに千代にお酌をするように命じる。善兵衛と羽左衛門は意気投合、盃をやったりとったり。そして、さりげなく「お嬢様はどちらかに縁組みの話でもあるのですか」と訊く。羽左衛門は「わしは善悪をはっきりさせたい性分ゆえに浪々に身になってしまった。娘にはお前が好いた人なら、町人だろうが、百姓だろうが、嫁がせてやると言っている」。これを聞いた善兵衛は急用を思い出したと言って、お店に戻る。

早速、長左衛門に報告すると、大喜び。「わしも明日、そこへ連れて行ってくれ」。そして、話はとんとん拍子に進み、長三郎と千代は祝言を挙げることにまで進んだ。

音羽六丁目の長屋の差配を頼まれている滝蔵は母親と二人暮らし。以前から千代に惚れていた。それが今度祝言を挙げると聞いて面白くない。同じく長屋に住む医者の山田玄庵は医者だが博奕ばかりやっているならず者。母親に早く死なれ、滝蔵の母親が乳母をして育てた。いわば、滝蔵と玄庵は乳兄弟だ。滝蔵が玄庵に「腹いせに破談にしたい」と相談する。玄庵も最初は「お前と千代では釣り合わない。諦めろ」と諭すが、滝蔵の強硬な態度に折れる。立派な医者に見えるようなナリをして、薬師問屋の小西屋を訪ねる必要がある、骨折り賃含めて10両を用意したら引き受けると言うと、諦めるだろうと思っていたら、滝蔵はあちこちから工面して10両を持ってきた。仕方ない、引き受けた。

玄庵は駕籠で小西屋に乗り付けた。奥の座敷に通される。「長崎で学んで戻って来た。この6種の薬を用意してくれ」と紙を渡す。長崎でてんかんの病の薬の調合の秘術を伝授された、“テレメンテン”と他の5種を調合するという。実は有馬家の家来で酒の間違いで殺人の罪を犯して浪人となった男からの依頼で、娘がてんかんの発作がある病ゆえ、あちこちの縁談が破談になり困っているので、その娘にその妙薬を持たせたいという。小西屋の番頭は玄庵に薬を渡し、代金を受け取ると、玄庵は帰った。

この話を聞いた長三郎は「これは音羽の千代のことだ。そんな病持ちとは夫婦になれない。この話はなかったことにしてくれ」と言い出す。善兵衛は「どこの医者かもわからない。そんな世間話で破談というのは惨い」と言うが、長三郎は「病持ちを嫁に貰えというのか。支度金の100両は返さなくて良いから、大藤様にお断りをしてきてくれ」。

善兵衛は大藤羽左衛門宅を訪ね、嘘を並べる。「長三郎が大病となり、名前も無い病気。早くて8、9年、長くなると15、6年は治るのにかかるらしい。そこまでお嬢様を待たせるわけにはいかない。100両の支度金は返さなくて結構です」。これを聞いた羽左衛門は「その見立ては何という医者によるものか。病と偽って、破談に来たな。そんな奥歯に物が挟まった言い方をして。承知できない。破談なら破談とはっきりと言え!…あれほど堅く決まった縁談なのに、何の罪咎があってそのようなことに…」。千代も「覚えがない」と言う。伊左衛門は「談判に行く!」と言って、小西屋へ。

小西屋の関係者は皆、逃げてしまう。二番番頭の利助が応対する。「長左衛門夫妻は箱根へ。長三郎は伊香保に湯治。善兵衛は蝦夷へ向かった」と見え透いた嘘を言う。羽左衛門は「明日の暮れ六つまでに理由をお聞かせ願いたい。もし、お答えがなければ、ご当家に血の雨が降る」。そう言って、音羽の長屋に戻る。

羽左衛門は千代に「誰か水を差す者がいるのだろう…酒を求めてきてくれ」と言う。千代は酒を買って帰る道すがら、山田玄庵に滝蔵が「うまいことやってくれたな。細工は流々仕上げを御覧じろだ。これで千代は俺のものだ。腕ずくでも手に入れる」と言っている声を聞く。破談にする狂言の作者を見つけたのだ。滝蔵の母が「川崎大師にお参りに行くので、寝坊の滝蔵一人になるから起こしてほしい」と糊屋の婆さんに頼んでいるのも聞こえた。

千代は決心する。「先立つ不孝をお許しください」と両の手を合わせ、短刀を持って家を出る。高イビキの滝蔵に「お目覚めくださいまし」と言って起こし、「二度も付文を頂いたのに、父に反対されていたんです。どうしても滝蔵さんと添いたい。父の許を飛び出してきました。連れて逃げてください」と囁く。その気になった滝蔵が油断する隙をついて、千代は短刀で滝蔵のみぞおちを突き差し、殺した。

血だらけの千代が家に戻ると、羽左衛門は血だらけの娘を見て驚く。そして、事情を訊く。「何という短慮…奉行所に訴えれば、お召捕りになったものを…人殺しの罪はぬぐえない」。羽左衛門は滝蔵の部屋に「家主滝蔵を殺したのは娘千代なり」と書き記した紙を残す。そして、玄庵を縛り上げて南町奉行、大岡越前守の裁きを受けることにした。

玄庵は一部始終を白状し、長三郎と千代の婚約を破談にしたことを認めた。だが、滝蔵を千代が殺した罪は免れない。滝蔵の母親は「息子は殺されて当たり前だ」と命乞いをした。また音羽の長屋の衆や小西屋の奉公人衆らが連名で嘆願書を提出した。そのおかげもあってか、千代は本来は死罪だが、三宅島に遠島という処分になった。そして数年後に御赦免となり、江戸へ戻る。長三郎は「自分が軽率だった」と反省し、独り身を通していた。羽左衛門が「千代を娶ってやってください」と頼み、長三郎と千代は改めて祝言を挙げ、小西屋の家督も相続したという…。長編スペクタクルの醍醐味を味わった。