田辺いちかの会「笹屋清花」、そして宝井一門会 宝井琴星「男女ノ川」

田辺いちかの会に行きました。「キリストの墓」「笹屋清花」「報恩出世俥」の三席。開口一番は宝井小琴さんで「戸沢白雲斎 五右衛門退治」だった。

「笹屋清花」は神田織音先生に作家の方があて書きした作品だそうだ。障害や貧乏にめげることなく生き抜いた女性の力強さに心打たれた。

吉原の最下層、いわゆる切見世、西河岸とも、浄念河岸ともいう女郎屋、笹屋で働く清花が主人公だ。越後で父の和助が目を離した隙に、四歳になる娘のお清が兎を追いかけて林に入り、切株につまずいて血だらけに。左目に木の枝が突き刺さり、陥没して失明してしまった。その10年後、父は亡くなり、母も病床に伏して、高価な人参を飲ませないと治らないという。そこで近所の人たちが心配して、お清は女衒の半次が奉公先を探し、吉原で働くことになった。と言っても、目が不自由では女郎にはなれない。廓の飯炊きなどの下働きとして奉公に出ることになった。お清、十五歳の春である。

お清は独楽鼠のように良く働いた。早朝から深夜まで、風呂炊き、飯炊き、掃除、洗濯…。母の容態が良くないと半次から聞くと、女将さんに「もっと働かせてください」と頼むが、これ以上働きようがない、倒れちまう、下働きの稼ぎでは人参を買うのは無理だ。女将はお清の熱意にほだされ、「客を取るかい?」。と言っても、今働いている中見世では受け入れてくれない。西河岸の笹屋のところで引き受けてもらうことになった。

すると、遊女清花として売れっ子になる。酉の市が終わった霜月。四つか五つの辻占売りの女の子が通人を気取った若旦那にぶつかった。芸者や幇間も一緒である。辻占が飛び散って踏みにじる形になった。その様子を見ていた清花は声を掛ける。「ちょいとお待ち!その踏みにじった辻占を買っておあげなさいな」。すると、若旦那は金だけ渡して去ろうとした。清花が叫ぶ。「この子は乞食じゃない!商いをしているんだ。辻占を貰っておいき!」。女の子に清花が声を掛け、「怖かったろう?大きな声を出してごめんね。名前は?幾つになるの?」。その子はお久と言って、四歳だが、父は亡くなり、母が病気で寝ているという。清花は「これで温かいものでも食べな」と小遣いを渡した。このお久に自分の境遇を重ねたのだろう。

師走。稼ぎを半次に渡すと、おっかさんが亡くなったことを知らされる。「結局、私は何も出来なかった。傍にいてやることも出来なかった。ちょっとでも会いたかった」。嘆く清花の哀しみはさぞ深かったことだろう。

正月。笹屋の入り口に女郎衆がたむろしている。小間物屋が来ていて、物色しているのだ。清花の目にとまったのは鼈甲の飾り櫛。牡丹の透かし彫りが施してある。小間物屋に値を訊くと、「これはある大店から預かったもの。15両する」と冷たくあしらわれた。清花は「今は持ち合わせがないが、明日お代を用意するからまた来ておくれ」と言う。

翌日。約束通り、桐の箱に入った飾り櫛を小間物屋が持ってきた。清花は袱紗包みを渡す。中にはしっかりと15両入っていた。母のために貯めていた3両に、残りは旦那から前借りをして都合したのだ。「これで私のものだね」と言うと、清花は櫛を手に取ってしばらく眺めると、口にくわえて嚙み砕いた。「河岸見世の女郎には歯が立たない。ヤワなものですね」。

見事な気っ風である。この出来事は「見上げたものだ」と噂が廓中に駆け巡った。そして、清花を欲しいと大店から声が掛かった。そして、清花は切見世の女郎から一気に大店の花魁に出世したのだ。清花の花魁道中の晴れ姿はそれは見事なものだったという。女の意地で生き抜き、全盛を誇った笹屋清花の物語。素晴らしかった。

宝井一門会に行きました。

「山中鹿之助 かわうそ退治」宝井琴人/「村越茂助 左七文字の由来」宝井魁星/「木村又蔵 鎧の着逃げ」宝井優星/「戸沢白雲斎 五右衛門退治」宝井小琴/「キリストの墓」宝井琴凌/「第一次南極観測隊物語」宝井梅福/中入り/「鬼平犯科帳 五月闇」宝井琴鶴/「男女ノ川」宝井琴星

琴星先生の力士伝「男女ノ川」。現役時代を描くのでなく、引退後の波瀾万丈な人生に目を付けるとは流石である。

明治36年、坂田供次郎は現在のつくば市の農家に生まれる。十五歳で身長182センチ、土地の相撲大会で活躍し、“坂田の金時”という異名を取る。大正12年、幕内力士の阿久津川が筑波に来た時に誘われ、角界入り。大正13年、初土俵。昭和2年、新十両。昭和3年、新入幕。昭和9年、大関昇進。昭和11年、横綱昇進。

横綱になったときは34歳、69連勝の双葉山と比べると負けばかりで弱い横綱だった。金使いが荒く、貯金もないために年寄株も買えず、引退が出来ない。困った佐渡ヶ嶽親方は相撲協会に「四股名のままの一代年寄制度」を提案。当時の出羽海相談役の鶴の一声で「功績を認め、一代年寄適用とする」ことになった。昭和17年の奉納相撲で太刀持ちが双葉山、露払いが羽黒山で最後の土俵入りを見せて、引退した。

その23年後の昭和40年。野球界は王・長嶋、相撲界は大鵬・柏戸、流行歌は♬アンコ椿は恋の花という時代。東京保谷の老人施設尚和園に坂田供次郎の姿はあった。施設の女性職員が坂田を取材した内外タイムスの記事を持って、坂田の部屋を訪れ、坂田が身の上話をする…。

最近の相撲はつまらないからテレビも見ない、力士が勝負にこだわりすぎだ、客が喜ぶ勝ち方、負け方、“コクのある相撲”が消えてしまったと嘆く。男女ノ川は双葉山に5連勝した後、10連敗したと。

相撲界に残らなかったのは戦争のせいだと言う。国技館は風船爆弾製造工場となり、自分も中島飛行機で従業員の体育教官をしていた。終戦後、工場跡地が格安で分譲されたので、800坪買って農業を始めた。食糧難ゆえ、儲かった。周囲の人たちに担がれて、衆議院選挙に出馬したが2回落選し、貯金は使い果たしてしまった。

色々な商売を転々とした。俳優としてジョン・ウェインと共演したこともある。「唐人お吉」という映画でやくざの親分役だった。探偵をやったこともあるが、尾行の際、身体が大きすぎて目立って失敗した。女房と子供は呆れて逃げてしまった。

内外タイムスの記事を読んで、相撲協会の時津風理事長から電話が入った。有志で見舞金を贈りたいという。男女ノ川の現在の境遇を哀れんだのだ。いそいそと国技館に出向いて貰った見舞金だが、多摩川競艇に行ってすっからかんにしてしまった。いかにもマイペースな男女ノ川のエピソードだ。

昔からの男女ノ川のファンだという男が施設を面会に訪ねる。武蔵村山にある料亭の経営者だ。「何もしなくていいから、余生を安穏に過ごしてほしい」という進言だった。下足番という役職だったが、男女ノ川の顔見たさに訪れる客も多かったという。

昭和46年、六十七歳で逝去。相撲界という枠からはみ出した生涯も、その体格ゆえからか。波瀾万丈、破天荒な生き方を伝える良い読み物だった。