歌舞伎「ゆうれい貸屋」、そして桂二葉ひとり会「まめだ」「佐々木裁き」

八月納涼歌舞伎第一部に行きました。「ゆうれい貸屋」と「鵜の殿様」の二演目。

「ゆうれい貸屋」は坂東巳之助演じる桶屋弥六と中村児太郎演じる芸者の幽霊の染次のコンビネーションが面白い。この演目を歌舞伎座で上演したのは平成19年8月以来で、そのときは弥六が巳之助の父である三津五郎、染次が児太郎の父である福助が演じており、伝承という意味でも興味深い。

弥六は評判の桶職人だったが、働いても働いても楽にならない暮らしに嫌気がさし、仕事もせずに酒浸りという怠け者になってしまった。そして、そんな亭主に愛想を尽かした女房のお兼(坂東新悟)は実家に帰ってしまう。

そこに現れたのが生前は辰巳芸者だった染次の幽霊である。恋人に騙されて恨みを抱いて死んだために、いつまでも成仏できずに人間界を彷徨っていた。それがなぜか弥六に惚れてしまい、女房になってくれと懇願し、夫婦になった。

そして滞っている店賃を支払うために、珍商売を思い付く。他人に恨みを持つ人々に幽霊を貸し出す“ゆうれい貸屋”だ。染次のつてで、何人かのメンバーが揃った。屑屋の又蔵(中村勘九郎)、爺さんの友八(市川寿猿)、婆さんのお時(市川喜太郎)、年頃の娘お千代(中村鶴松)…。世の中には恨みを幽霊で晴らしたいという需要が結構あるもので、これが大繁盛。

だが、この先が作者の山本周五郎のメッセージになると思うのだが、弥六が人間のあざとさ、浅ましさを知ってしまう。又蔵が発注通りにクライアントの女房の許へ恨み言を言いに行ったが、その女房は怖がる様子もなく、散々に悪態をつき、追い払われたという。そのときの又蔵の「浮世も金、あの世も金の世の中だが、何事も生きていればこそ」という台詞が弥六の心に響いた。

生きているうちに甲斐のあることをしなければ悔いが残る。又蔵の言葉を反芻する弥六に対し、浮気性のお千代がしなだれかかって、かき口説くも暖簾に腕押し。この様子を見た染次が嫉妬に狂い、弥六を憑り殺そうとするが、弥六には邪心がないために染次の姿は消えてしまう。

すごく陳腐な言い方かもしれないが、人間は自棄にならずに真面目に生きてこそ喜びがあるということを山本周五郎は言いたかったのではないか。この芝居も改心した弥六の許に女房のお兼が戻って来て、大団円。コミカルな笑いの多い脚色で大いに愉しかったが、終演後にちょっと真面目にそんなことを考えた。

夜は「湯島落語会~桂二葉ひとり会」に行きました。「闘病日記」「まめだ」「佐々木裁き」の三席。

「闘病日記」は今月上旬に扁桃腺切除のために山王病院に入院したときのエピソードを面白可笑しく25分喋ったものだ。まあ、マクラの延長線上ではあるが、ご本人が「これで一席とさせてください」とおっしゃっていた。経験したことで笑いに転化できるものはネタにしていこうという芸人として根性は見上げたものがあると思った。入院費一泊、4万8千円ですって!

「まめだ」は死んでしまった子狸を思うと切なくなる噺だ。駆け出しの歌舞伎役者、市川右三郎は雨が降ってきて傘を差しての芝居帰り、傘の上に子狸が悪戯して乗ってきたのを、懲らしめようとそのままトンボを切った。子狸は地面にしたたか打たれて、傷を負ったことを後で知る。

右三郎の母親は“びっくり膏”という膏薬を一貝一銭で売っているが、毎日勘定が一銭だけ合わない。その代わり、銭函には銀杏の葉が一枚入っている。それは絣の着物を着た男の子が買いに来るようになってからだ。それが10日続いて、終わった。すると、寺の境内で子狸の死骸が発見された。身体中に貝殻を貼り付けている、けったいな死骸だった。

右三郎は気付く。ああ、自分がトンボを切ったときに子狸は怪我をしたんだ。膏薬の塗り方も知らなかったから、死んでしまった。弔いの真似事をして、近所の人たちに線香を手向けて貰った。すると、秋風が吹いて沢山の銀杏の葉が死骸に集まった。「狸の仲間が大勢、香典持ってきた」。米朝師匠のために書き下ろした、この落語の作者である三田純市先生のセンチメンタルが心に沁みる。

「佐々木裁き」は二葉さんのためにある落語ではないか!と思うくらいにニンに合っている落語だ。生意気だったり、こまっしゃくれていたり、聡明だったり、そして愛くるしい子どもを描かせたら天下一品ではないか。四郎吉もそうだが、いっしょに“お奉行ごっこ”をしていた子どもたち各々のキャラクターの演じ分けもできているから凄い。

四郎吉が父親の高田綱五郎と一緒に西町奉行に呼び出され、佐々木信濃守のお裁きを受けるところ。饅頭をくれる父と小言をくれる母ではどっちが好きか?という意地悪な質問に、饅頭を二つに割って、堂々と「お奉行様は、どっちの饅頭が美味しいと思いますか?」。頓智頓才の利く四郎吉に拍手喝采だ。

続けて、与力の身分は?と問われ、おきあがりこぼしを取り出して、「身分は軽いが、お上の意向でピンシャン動き、腰のない奴です」。与力の心意気は?と問われ、天宝銭を括りつけ、「とかく金のある方へ傾く」。十三歳の少年にグーの音も出ない与力たちが目に見えるようだ。

この噺の締めもしっかりしている。四郎吉のような利発な子どもは導きようで、良い方にも悪い方にも転がる。佐々木信濃守は「十五になったら引き取る」と言って、四郎吉の進路を間違えないように支えた。四郎吉の聡明さだけが際立つ演出が多い中、佐々木信濃守が先々を見据えている知恵者であることを示しているところが、二葉さんの高座の素晴らしさだと思った。