NODA・MAP「正三角関係」
NODA・MAP「正三角関係」を観ました。ロシアの文豪ドストエフスキーの名作「カラマーゾフの兄弟」を下敷きに、花火職人の一家“唐松族”を描いた物語だ。
時代は第2次世界大戦末期、富太郎(松本潤)、威蕃(永山瑛太)、在良(長澤まさみ)の唐松三兄弟の父親、兵頭(竹中直人)がある日、何者かに殺される。大半の場面は父親殺しを審理する法廷だ。長男の富太郎に嫌疑がかかるが、次男威蕃も疑わしい。竹中が富太郎を起訴する検事役も務め、弁護士役の野田秀樹と対峙する構造が面白い。
新聞のインタビュー記事の中で野田さんは「夢の遊民社」として活動していた20代の頃は「テーマ主義」に陥ることを極端に嫌い、「言葉遊び」のもたらすイメージの転換を作風の特徴としていた。取材テーマを訊かれて、「2、3行で喋れるなら長い芝居をやらなくていいじゃないですか」と反発していたという。
でも、それも歳を重ねるごとに原子爆弾や天皇制など、劇作家としてテーマを少しずつ前に打ち出すようになっていった。野田さんが世に問いたいと考えるテーマを繰り返し取り上げることに意味を感じるようになったそうだ。
今回の「正三角関係」も、野田さんお得意の言葉遊びは健在だが、“花火”をめぐる物語が長崎に落とされた原爆にこうつながるのか!と芝居最終盤で自分の中に沁み入って、膝を打った。野田さんはパンフレットの中でこんなことを書いている。以下、抜粋。
四六時中、芝居のことばかり考えている私は、大体下を向いて生きている。そこで最近、リュックを背負うことにした。それも中身を重くするのだ。生半可な重さだと、かえって背中が曲がる。(中略)結局、リュックの中に入れて人間の背筋を伸ばすほどの重量は、「人間の原罪」くらいしかないのではないか、そう思案した。そんなことを考えて道を歩いていたら、やっぱり下を向いていた。というわけで、今回の芝居は、下を向いて考えぬいた「空を見上げる花火師」の話である。以上、抜粋。
また、パンフレットのインタビューで「野田さんが『書きたい事』は近年、人として忘れてはいけない出来事を多く取り上げています」という問いかけに対しても、こう答えている。以下、抜粋。
「人として忘れてはいけない」など畏れ多いです。「自分で、あれはどういう事だったのか?」という出来事です。若い頃は演劇で具体的な出来事を扱うのが嫌だった。でも年齢や自分の出身を考えたときに、おこがましいけれど自分にしか書けないだろうと思う「事」を選ぶようになった。以上、抜粋。
例えば17年の「足跡姫」では中村勘三郎の名前を作品として残したかった、21年の「フェイクスピア」では日航機墜落事故の生々しい「コトバ」を使うことに葛藤があったが、現実を語る表現と“作品”はやはり別の物だと確信したと手応えを感じたことを語っているのが印象的だった。
今回の「正三角関係」。戦争によって沢山の犠牲者が出たことへの鎮魂、そして人間誰にでも潜む殺人への衝動、この二つのことが終演後の僕の脳裏を駆け巡った。この二つは別物ではなく、各々がオーバーラップするものであり、それが野田さんの言うところの「人間の原罪」なのかなあと素人ながら思った。