映画「碁盤斬り」
映画「碁盤斬り」を観ました。監督:白石和彌、脚本:加藤正人、主演:草彅剛。
落語「柳田格之進」の映画化である。僕はこの噺が大好きである。柳田の正々堂々、噓偽りのない、これでもかという清廉潔白、愚直とも言える真っ直ぐな生き方に惚れるからだ。今回、その柳田を草彅さんが見事に演じていたことに感嘆した。ある映画評論家がその朴訥な演技を「平成の笠智衆」と称していたが、なるほどそれは言えていて、そのストイックな草彅さんだからこそ、成し得た映画だと思った。
「柳田格之進」は柳田と萬屋源兵衛の友情の物語だと僕は思っているが、今回の映画では友情を超えて、源兵衛が柳田を畏敬しているところに妙味がある。単純に碁会所で出会って仲良くなり、我が家に招き入れ…というのではなく、悪党が安物の茶碗を「高麗物に傷をつけた」と因縁を源兵衛に吹っ掛けているところを、柳田が目利きして救ってあげるという段階を踏んだ上で、碁の好敵手として交流を深めていくという展開に説得力がある。そして、源兵衛はこれまで“吝(けち)兵衛”と渾名されていたのが、柳田の清廉潔白に感化され、“仏の源兵衛”と呼ばれるほどに変化していくというのも面白い。その源兵衛を國村隼が好演している。
なぜ柳田が浪人しているのかという点においても、落語では「その清廉潔白さがかえって疎んじられた」ためとぼんやりしているが、これを明確にしているのも良い。すなわち、彦根藩の進物役を勤めていたが、御家の家宝である掛け軸を紛失してしまい、その罪の責任を取って、藩を追われたとしている。その罪も実は濡れ衣だったことが、後に判るのだが…。
萬屋の手代の弥吉を重要人物にしているキャストも優れている。中村大志が演じた。弥吉は両親を早くに亡くし源兵衛に育てられた。源兵衛はいずれこの店を弥吉に継がせたいと考えている。その弥吉に対し、柳田様に碁を教わりなさいと命じ、柳田の住む裏長屋に通ううちに、柳田の娘のお絹と心を通わせるという演出だ。お絹は清原果耶が演じている。柳田が萬屋の月見の宴に招待されたとき、娘さんもご一緒にと誘われ、お絹が母親の形見の晴れ着を着て一緒に出席するという展開も素敵だ。ちなみに、落語ではお絹が月見に行くことはない。
月見の晩にある店から届いたお掛けの50両を源兵衛は碁を柳田と打っている最中に受け取るが、厠に行く際に額の裏に置いたことを失念した。紛失騒ぎとなったとき、柳田が盗んだのでは?と疑うのは番頭の徳次郎である。だが、徳次郎は自分ではなく、弥吉に柳田宅を訪ねさせ、「50両を知らないか?」と訊く役目を担う。嫌疑をかけられた柳田が激怒すると同時に、お絹も弥吉のことが嫌いになってしまう…。
身の潔白を示すために切腹しようとする柳田を止め、娘お絹は萬屋に渡す50両を以前から親交の深い吉原の半蔵松葉の女将お庚に頼んで拵える。このお庚役を小泉今日子が好演。落語「文七元結」の要素を取り入れ、「来年の大晦日までに50両返さないと店に出す」と期限を作るところ、気風の良さが見える。お庚の言葉で「この吉原は極楽に見えるけど、裏は地獄だよ」という台詞も印象に残った。
今回の映画はこの萬屋紛失の50両をめぐるストーリーの他にもう一本柱がある。柳田の復讐だ。自分が彦根藩を追放された原因の掛け軸紛失、実は柴田兵庫という藩士が柳田をやっかみ、盗んだのだった。さらに柴田は柳田の妻に横恋慕していて、無理やりに強姦。これを苦にした妻は琵琶湖に身を沈めて自害したのだった。柳田はこの柴田が信州あたりで賭け碁をしながら逃げていると聞き、仇討の旅に出る。そして、塩尻で「両国の碁会に行く」と言って先日江戸に向かったという情報を得て、遂には柴田の居場所を突き止め、碁会の場で首を刎ね、本懐を遂げる。この復讐劇を加えることで、「柳田格之進」の人情噺の味わいやテーマにブレが生じないか危惧されたが、全くそうはならなかったのは流石である。
この柴田兵庫仇討と同時期に、萬屋の離れから額の裏に隠れていた50両が見つかる。弥吉は噓偽りなく、このことを柳田に告げ、自分の首と主人源兵衛の首を斬られる覚悟をして臨んだが…。柳田が振り下ろした刀が斬ったのは、碁盤だった。晴れて半蔵松葉にいるお絹が店に出る前に身請けすることができ、母親の仇を討った報告も出来た。そして、弥吉とお絹は祝言を挙げるというハッピーエンド。
しかし、柳田は彦根藩に帰参することは断り、浪人のまま掛け軸紛失で追放された他の仲間を助ける旅に出る…。それこそが自分の信じた道を愚直に真っ直ぐに生きる武士というものなのか。心が震えた。