こまつ座「連鎖街のひとびと」、そして黒酒・松麻呂二人会
こまつ座第148回公演「連鎖街のひとびと」を観ました。
舞台は昭和20年8月末、満州国の大連の繁華街「連鎖街」にある今西ホテルの地下室。ソ連軍の軍政下、二人の日本人劇作家(一人は新劇、もう一人は大衆演劇)がソ連軍から命じられた余興用の30分の芝居の台本を書くのに四苦八苦している。国そのものがなくなり、帰ることも留まることもできない悲惨な状況の中で、この二人に加え、役者や作曲家やピアノ奏者、ホテル所有者も加わって、共同作業で大ピンチを乗り切ろうという奮闘をユーモアも交え描いている。
演出の鵜山仁さんはプログラムの中のインタビューで次のように述べている。
塩見と片倉という2人の作家が、台本が書けなくて脂汗を流しているシチュエーションは、新作に向かう時の井上(ひさし)さんのシチュエーションでもある。(中略)この場面は恐らく、満州で日本人がやって来たことについての総括レポートを出せ、というような要求が、この2人の作者に突きつけられているということなんだろうと、そういった感覚が井上さんの中にもあったんじゃないかと思ったんです。たかだか30分間の余興の台本を書けと言われたはずなんだけど、現実には、進駐して来たソ連軍の前で、敗者となった日本人が自らの過去をどう総括するのか、そのことを考えずにいられなかった。終戦によって中国人と日本人の立場が逆転してしまった、しかも、中国人のように自分の国土という足場もない、とても不安で危険な状況に放り込まれた日本人が、新たな征服者を歓ばせるための余興を書かなければならない。(中略)井上さん自身が、満州での責任は背負わなきゃならない、しかしそんなことができるのか…そんなふうに考えられたんじゃないかと思うんですよね。以上、抜粋。
この芝居の中に、作者を含めた日本人一人ひとりへの戦争責任への問いが潜んでいる。そして、戦争責任や自己批判を促すだけでなく、生きることへの励ましや救いがこめられていると思った。鵜山さんは「現実の過ちを芝居で償えるか」という、大きな意味での芝居一般の存在意義について触れている。
結局これは「芝居は人間の過ちを修復できるか」といった、とても倫理的な課題をはらんだ芝居だと思います。芝居をやること、見ることで、実生活を作り直せるかということ。蓄積した歴史、記憶というものがあるから現実は決してチャラにはならないけれど、過ちを犯したなら犯したなりに、傷ついたら傷ついたなりに、芝居によって罰せられ、芝居によって救済される…なんて都合のいいことが、全くないとは言えない気がするんですよね。芝居をやることが人生の失敗の完全な償いになるかと言えば、そうは言えないけれど、多少凌ぎやすくなった、新たな人生の可能性を発見することができた、リスタートできるようになった…なんて効果が、少しでも上がればいい。井上さんはそんな感覚で、この芝居を書かれたのかもしれないと思うんです。以上、抜粋。
生きることはつらい。でも、楽しいことだってある。だから、頑張って生きる。過去を引き擦りながら生きる。その原動力として、「芝居を観る」というのがあるのかもしれない。少なくとも、僕にはそう思えた。
夜は「高円寺若手箱 桃月庵黒酒・神田松麻呂二人会」に行きました。黒酒さんは人間国宝の五街道雲助師匠の孫弟子、松麻呂さんは人間国宝の神田松鯉先生の弟子。偶然だろうが、この組合せに今さらながら気づいた。
「荒木又右衛門 奉書試合」神田松麻呂/「兵庫船」桃月庵黒酒/中入り/「初天神」桃月庵黒酒/「五平菩薩」神田松麻呂
松麻呂さんの「奉書試合」。又右衛門が“柳生真流指南”と看板を掲げたことにカチンときた柳生飛騨守。誰に許しを得たのかと問うと、飛騨守の兄の柳生十兵衛だという。そんなことは考えられないと飛騨守は又右衛門に刀で斬りかかるが…。又右衛門が見せた真剣白刃取り!荒木又右衛門伝説のはじまりだ。
「五平菩薩」。真っ直ぐな男の美しさを思う。潤沢な水が自慢だった奥州の泉村だが、浅間山の大噴火によって、枯渇してしまい、多くの村人が去った。井戸掘りの五作が頑張ったが、水脈を当てることができず、挙句に中気で寝込み、ついには亡くなった。その父の遺言を引き継いだ五平が、まさに命を賭けて井戸を掘る姿が心を打つ。
だが水は出ず、村人たちは五平を見捨て、名主の三郎兵衛までも白河へ移り住むというところまできた。三郎兵衛の娘のお露は親の反対を押し切って簪などを売り払い、三両を拵えて五平は5本の錐(きり)の資金にしたが、これも失敗。玄誉和尚が寺の宝を売って8本の錐を購入する算段をつけ、断食して経を唱え、五平の成功を祈る。7本の錐を無駄にして、もはやこれまでか?と諦めていたときに、五平から「水が出た!」という朗報が届く。お露や和尚が喜んだばかりでなく、これまで冷たい目で五平を見ていた村人たちも沸いた。
水脈周辺を掘ると次々と水が出て、泉村は再びその名の通り、潤沢な水に恵まれるようになったという。村では五平の井戸を掘る姿を木像にして、菩薩のように拝んだ。何事も諦めずに、一心に突き進むことの大切さを教えてくれる。
黒酒さんの「兵庫船」。船の上での、江戸っ子二人組と大坂人の謎かけ風景が愉しい。そして、鮫の犠牲になることが決まった講釈師のカンダマシュマロ(笑)がこの世の別れに披露する講釈。これが実に酷い!下手くそ!という演出で大いに笑わせてくれた。ここの五目講釈を流暢に読むのがこの噺の肝と思っていたが、黒酒さんの逆の発想が実に新鮮だった。
「初天神」。金坊が団子を買って貰って、自分で食べるが、父親にも「食べる?」と言ったり、さらに「おっかさんに土産に持って帰る」と言ったり、気遣いするところが可愛い。で、「大人はどうして甘い物、食べないんだろう」。また、凧を買うと、父親が夢中になって凧を揚げ、大人げなく隣りの子どもと喧嘩凧をするところ、面白い。「糸にガラスの粉が混ぜてあるから、負けないんだ!」。無邪気なのは父親の方というのが何とも愉しかった。