歌舞伎「文七元結物語」
錦秋十月大歌舞伎昼の部に行きました。「天竺徳兵衛韓噺」「文七元結物語」の二演目。これまで三遊亭圓朝口演の「文七元結」を歌舞伎化した「人情噺文七元結」は何度も上演されてきたが、今回は映画界の巨匠である山田洋次監督が脚本・演出を担当し、長兵衛女房お兼を寺島しのぶが演じるという新機軸の舞台とあって、大変興味深く観劇した。
今回の最大の特徴は、冒頭にお久(中村玉太郎)が角海老を訪ね、女将のお駒(片岡孝太郎)に「自分を買ってくれ」とお願いする場面を作ったことだろう。父親の長兵衛(中村獅童)が酒と博奕に溺れ、母親(寺島しのぶ)に乱暴を働くのを見て、とても居たたまれない、私は長兵衛の連れ子で、母親は血の繋がっていない継母であるために、余計に見ているのが辛いと訴える姿が心に迫る。
お駒に対し、お久が意を決して「私を買ってください」と言うのはよっぽどのことだ。そうやって拵えたお金を女将さんから渡して意見をしてもらえれば、父親も改心して一生懸命働くだろうし、継母に乱暴をすることもなくなるのではないか。そう、切々と訴えるお久の台詞はお駒にだけでなく、観客の胸を打つ。これまで女将が経緯を長兵衛に話して済ませていた、この大事なことをきちんと芝居にしたことで、より説得力を持つなあと思った。
そして、角海老の若い衆の藤助に呼ばれて、長兵衛が女将お駒とお久がいる部屋を訪ねる場面。お駒がお久がどんな思いでこの店に来て「私を買ってください」と言ったか、長兵衛に言い聞かせるところは、お久が訪ねて来たときの芝居をなぞる形にはなるが、不思議と重複する印象を持たなかった。お久の言葉が、お駒というフィルターにかかって、より身に詰まされる説教に昇華しているのだ。
来年の大晦日を期限に50両を貸す、それまでに返してくれれば、お久を店に出すことはないと言って、その50両を渡す段。お駒は直接長兵衛に渡すのではなく、一旦お久に渡し、お久から長兵衛に渡すようにする。それだけお久の両親に対する真心がこもった金であることを実感できる。御礼も「私にするんじゃないよ。お久にするんだ」とするところなど、長兵衛が心の底から改心する筋道を作っているのが良い。お久も「おっかさんを大切にしてね」と言って渡すところなど、長兵衛にとってもこれほど熱い、だが有難い灸はないだろう。
そして、吾妻橋。掛取りの50両をスリに盗まれたと思い込み、身投げしようとしている文七(坂東新悟)を見つけた長兵衛の訴える命の大切さが心に沁みた。金で命は替えられない。何とか死なない手立ては考えられないのか。これだけ俺が言っても、どうしても死ぬというのか。身寄り頼りのない自分をここまで育ててくれた旦那に申し訳がないので死ぬと頑固な文七に長兵衛は折れる。
吉原の方向を向いて、「お久、すまねえ」と拝み、長兵衛は文七に50両を渡す。今年十七になる親孝行の娘だが、泥水に沈んだって死なない。だが、お前はここで飛び込んだら本当に死ぬんだ。俺のことはどうだっていい。有難いと思ったら、お久がどうか悪い病を引き受けませんようにと、どんな神様でもいいから拝んでくれ。やりたかないけど、お前は死ぬと言うから…。「お久の血と涙の50両だ、チクショー!死んじゃいけないよ!」と50両を文七にぶつけて、長兵衛は走り去っていく。命は大切にしなきゃいけない、そう教えてくれる大好きな場面だ。
最後の長兵衛宅に近江屋卯兵衛(坂東彌十郎)が文七を連れて訪ね、あの50両は盗まれたんじゃない、水戸様に置き忘れたんだと説明し、長兵衛に50両を返却して、お久も身請けされて駕籠で帰ってくる場面。近江屋は長兵衛を「神様みたいな人」と言った。すると、長兵衛は「神様はこの娘、お久ですよ」と答えた。すると、家主の甚八(片岡亀蔵)が「正直の頭に神宿る」と言うと、長兵衛は(あの50両は)「俺がやったんじゃない、神様がやったんだ。神様はちゃんと見ていた。投げてやりなさい、と神様が言ったんだ」。
僕は思う。やはり、あの50両は人情に厚い長兵衛、命の大切さが判っている長兵衛、普段はぼんやりしていて、博奕で身を持ち崩したこともあったけど、これからは一生懸命に働こうと考えていた真面目な長兵衛親方がやったんだ。文七を助けた、それが情けは人の為ならずで、己が身のためになったんだ。江戸っ子ってそういうものなんだ。そんなことを考えながら、家路に着いた。